MEMORANDUM

◆ 画家・斎藤真一、1922(大正11)年、岡山県児島郡味野町に生まれる。味野町はその後、1948(昭和23)年、児玉市味野に、さらに、1967(昭和42)年、倉敷市児島味野に。

◇  山陽線の岡山駅で宇野線に乗り換えると、急に車中の人の言葉が変ってくる。まったくの岡山弁である。岡山に二十年住んで、岡山を離れてまた二十年、故里を離れるたびにも帰郷のたびにも、その懐かしさは言葉では言いあらわせない。宇野線沿いの、広々とした藤田新田を車窓に眺め、岡山から四つめの駅、茶屋町で下車、陸橋を渡って下津井線のコッペルに乗り換える。この鉄道がまた懐かしい。線路は本線よりもずっと狭く、車輌は二つか三つ繋がったマッチ箱のようで、長い煙突のついた蒸気機関車がそれをひっぱる。茶屋町から下津井まで片道六里、私の生ま故郷は下津井の一つ手前、味野というところである。
 汽車の腰掛はベンチ式で、前の人と膝がくっつくように狭い。

斎藤真一 「故里の汽車」(『一寸昔(ちょっとむかし)』所収,朱雀院,p.49)

◇ 汽車は猫のひたいのような盆地の間を縫うように走って、線路の音が座席のうす板をとうしてカタカタと頭にひびく。機関車は古くて小さいがクラウスと言って、馬力だけはあった。大正の初年開通当時ドイツから買ったもので当時は自慢の一つであったが、私の中学時代、暴風雨の或る日、山の登りカーブで煙突が落ちて、車中の通学生がみんなで谷を探しまわったことがあった。登り坂では焼玉のようになって火の粉を吹き上げるこの煙突もついにこと切れた感じであった。
Ibid., p.54

◆ 下津井線とは、下津井軽便鉄道(のちに下津井鉄道、さらに下津井電鉄に社名変更)のこと。《Wikipedia》によると、

  • 1911年(明治44年)8月15日 - 下津井軽便鉄道として設立。
  • 1913年(大正2年)11月11日 - 茶屋町~味野町(後の児島)間14.5kmが開業。軌間762mm。
  • 1914年(大正3年)3月15日 - 味野町~下津井間6.5kmが開業。
  • 1922年(大正11年)11月28日 - 下津井鉄道に社名変更。
  • 1949年(昭和24年)8月20日 - 下津井電鉄に社名変更。
  • 1972年(昭和47年)4月1日 - 茶屋町~児島間を廃止。線路跡は倉敷市へ売却、自転車道となる。
  • 1991年(平成3年)1月1日 - 児島~下津井間を廃止、鉄道から撤退してバス会社となる。
ja.wikipedia.org/wiki/下津井電鉄

◆ 上記引用中の「陸橋を渡って下津井線のコッペルに乗り換える」と「機関車は古くて小さいがクラウスと言って」の、コッペルとクラウス。どちらもドイツの機関車製造メーカーだが、下津井鉄道にコッペル製蒸気機関車が在籍していたという記録は見当たらない。軽便鉄道のことを「コッペル」と呼ぶ習慣があったのかもしれない。クラウス製蒸気機関車は、《下津井電鉄株式会社:歴史資料館》に、写真があった。

◇ 混合列車を引っ張る12号機関車(昭和13年5月21日・下津井駅)
※大正2年9月ドイツ・クラウス社製。六輪連結炭水機関車。

www.shimoden.co.jp/hisory/index02.html

◆ 細長い煙突の蒸気機関車にマッチ箱のような客車。いかにも「汽車ポッポ」という感じだ(一瞬、鳩ポッポが頭をよぎる)。機関車の煙突がとれてしまって、乗客みんなで探しまわったというエピソードが微笑ましい。マッチ箱のような客車はもうない。マッチ箱そのものもあまり見かけなくなった。

◆ 「めぐる」をめぐる。「めぐる」は、巡る、回る、廻る。

◆ 子どものころ、「お城めぐり」が好きだった。お城のまわりをぐるぐる回るのが好きだった、というわけではもちろんない。全国(というほどではないが)のあちこちにあるお城を訪ねて回るのが好きだった。天守閣がある城なら、鉄筋コンクリートでできていても、喜んで行った。まだ子どもだった。今は、すこし大人になったので、石垣だけが残されたような城跡も好きだ。でも、城跡には、石垣も土塁も残されていないようなものの多くあって、そこまではちょっとなあ。まだまだ子どもなのか? たとえば鎌倉市にある玉縄城がそんな城で、北条早雲が築いたそうだが、現在その跡地には女子高が建っているばかりで、城の遺構といえるようなものはほとんどなにも残されていない。ただ、「城廻(しろめぐり)」という町名が残っている。

◆ 「お城めぐり」と「城廻」、同じようなコトバだが、「めぐる」の意味がやや違う。ワタシの「お城めぐり」は複数の城を訪ねて回るのに対し、地名の「城廻」は、城の回りということで、もちろん城はひとつしかない。

◆ 「岬めぐり」という歌がある。1974年にヒットした山本コウタローとウィークエンドのフォークソング。

♪ 岬めぐりのバスは走る
  窓に広がる青い海よ
  悲しみ深く胸に沈めたら
  この旅終えて街に帰ろう

  山本コウタローとウィークエンド 「岬めぐり」
  (作詞:山上路夫,作曲:山本厚太郎)

◆ 歌詞を読むかぎり、「あなたがいつか話してくれた/岬を僕はたずねて来た」あたりからして、この「岬めぐり」の岬はどうやらひとつのようだ。けれど、この歌を聞いてワタシが思い浮かべるイメージは、どうも複数の岬を回っているようなのだ。「岬めぐりのバス」は少なくとも1時間は走っていてほしいような気がする。好きだった「あなた」を失った「悲しみ」を「深く胸に沈め」るには、それくらいの時間が必要だろうと思う。ひとつの岬を回るのに1時間もかかるバスはないだろう。というか、そんなに大きな岬はないだろう。そもそも「岬めぐり」ならバスより遊覧船のほうが向いているのではないか。そんなことを考えたのは、去年の夏の終わりに北海道の積丹半島をドライブしたときに、神威岬で見かけた観光バスに「岬めぐり」とかなんとか書いてあったからで、たしかに積丹半島の海岸沿いの道路は「岬めぐり」の歌のワタシのイメージに近かった。で、この「岬めぐり」の岬とは「積丹半島」のことだったのかどうか。それとも積丹半島にある神威岬そのほかの岬をまわるという意味だったのか。

◆ 「岬めぐり」の歌詞は、三浦半島が舞台だというハナシもあるそうだ。その場合、「三浦半島=岬」なのか、半島の複数の岬を回るという意味なのか? それとも三浦半島の特定の岬のことなのか? 疑問はめぐりめぐる。

◆ 以前「三浦岬」という記事を書いて、ユーミンの「海を見ていた午後」の歌詞に出てくる三浦岬のことを話題にしたが、これも「岬めぐり」と同じく1974年の歌だった。岬がちょっとしたブームだったのだろうか。さらには、その記事で、ついでに「知床旅情」の「知床の岬」についても触れたが、そういえば森繁久弥がさいきん亡くなった。亡くなったといえば、「岬めぐり」の歌詞に出てくる「あなたがいつか話してくれた」の「あなた」は死んでしまったのかどうか? さらに疑問はめぐりめぐる。

◆ ビデで思い出したが、こんなハナシがある。トイレのことを、フランスのフランス語では、たとえ便器がひとつであっても、「les toilettes」と複数形で表現する。だから「トイレに行く」は、フランスでは「aller aux toilettes」となるが、ベルギーのフランス語では、トイレを単数形にして、「aller à la toilette」となる。なぜか?

◇ On en trouve en France, pas en Belgique. Il est vrai qu'en France, on va 'aux toilettes', tandis qu'en Belgique, on va 'à la toilette'. La différence doit venir de la :-)
〔(ビデは)フランスにはあるけど、ベルギーにはない。たしかに、フランスでは「(複数形で)トイレに」行くと言い、ベルギーでは「(単数形で)トイレに」行くと言う。違いはそこからでしょうね。〕

fr.answers.yahoo.com/question/index?qid=20080321152238AARLeZK

◆ 別な答え。

◇Réponse : parce qu'en France il faut en visiter plusieurs pour en trouver une qui est propre.
〔答え。フランスでは、きれいなトイレを見つけるのに、いくつも探しまわらないといけないから。〕

forum.aufeminin.com/forum/societe2/__f18134_societe2-Pourquoi-dit-on-en-belgique-je-vais-a-la-toilette-et-en-france-je-vais-aux-toilettes.html

◆ ほんとうの答えは知らない。単数形では直接的すぎるから、という説もある。

  ビデ

◆ イタリアの鳩事情を調べていたら、こんなブログ記事に出くわした。「AVA JALコレクション よくばりイタリア夢紀行 10日間」という団体旅行に参加したひとが、ローマで「僕ら夫婦が3泊した部屋」を写真入りで紹介していて、絵文字だらけの文章なので、それは全部省略し、句読点を打ち直して採録すると、

◇ 左側のトイレの写真ですが…。なんとトイレの横に良く分からないトイレ。2日目の朝、添乗員のOさんに聞いたところ、なんと「お尻洗い」らしい。早速2日目夜から使用開始。使い方がイマイチ分からず使いましたが…。日本のウォシュレットの方が断然良い←正直な意見(゚3゚)
blog.livedoor.jp/mame_momo/archives/53155787.html

◆ 思わず笑ってしまったが、ビデを知らなかったからといって、なにも笑うことはない。

◇ わたしが初めてビデを見たのは、10年前、イタリアのホテルで。ビデとはつゆ知らず、「イタリアには大用と小用の便器があるのか!?」と軽くパニックになったことを思い出す。一緒にいた友人もビデを知らず、ちょうどいいからと、果物をビデの中で冷やしていた。その後、友人はひんやり冷えたリンゴを皮ごと食べていたが、わたしは本能的に「それは違う。それはあかん」と、しっかり皮をむき、食べたのだった。
www.excite.co.jp/News/bit/00091133255208.html

◆ ビデにまつわるハナシは、ちょっと調べただけでもいろいろとおもしろいエピソードが出てきて、きりがない。

◆ 善光寺の鳩豆売りのおばあさんを見て、メリー・ポピンズ(または、メアリー・ポピンズ)の鳩のエサ売りのおばあさんを思い出した、というひとがいる。

◇ そういえばメリーポピンズに豆売りのおばあさんがでていた。
marinezumi.blog102.fc2.com/blog-entry-884.html

◇ お二人を見ているとメアリー・ポピンズに出てくるウエストミンスター寺院の豆売りのおばあさんを思いだしてしまう。
www.geocities.co.jp/Bookend-Christie/5898/b/zen04.htm

Mary Poppins は、日本では、ジュリー・アンドリュース主演のミュージカル映画の場合は「メリー・ポピンズ」で、その原作であるパメラ・トラバースの小説の場合は、「メアリー・ポピンズ」と表記されるようで、その違いの理由は、

◇ 日本では、Maryの英国式発音と米国式発音を区別するために、英国式発音は「メアリー」、米国式発音は「メリー」と書くことが習慣になっています。
bbs3.sekkaku.net/bbs/?id=eikaiwa&mode=res&log=5352

◆ ということにあるのだろう。だから、

◇ 映画のタイトルは『メリー・ポピンズ』だが原作の翻訳本だと『メアリー・ポピンズ』となっている。これはやはりMARYの発音がイギリス式とアメリカ式で違ったりするのだろうか。わたしは子供の頃に本の『メアリー・ポピンズ』を読んでいたのでどうも『メリー・ポピンズ』という呼び方には違和感があってしょうがない。
www.jion-net.com/blog/archives/2004/12/post_322.html

◆ というひとが出てくるのはしょうがないし、映画を先に観たひとが本の「メアリー・ポピンズ」という表記に違和感を覚えるのはしょうがない。以下、面倒なので(ワタシは映画も観てないし、本も読んでないから、どちらにも思い入れがないので)、すべて Mary Poppins と書くことにする。で、この Mary Poppins に、「鳩おばあさん」が登場するらしい。

◇ セントポール大聖堂といえば、メリーポピンズ。1ペンスで、鳩のエサを売っているおばあさんのシーンが浮かびます。
blog.goo.ne.jp/elizabeth-hu/m/200903/1

◆ このひとは「メリーポピンズ」と書いているので、これは映画のハナシだろうか。ところで、セントポール大聖堂? その前には「ウエストミンスター寺院の豆売りのおばあさん」と書いているひとがいて、このひとは「メアリー・ポピンズ」と書いていたから、本では「ウエストミンスター寺院」で、映画では「セントポール大聖堂」ということになっているのだろうか。それとも、たんにどちらかが間違っているのか。ちょっと調べてみると、映画の「鳩あばあさん」は、ウエストミンスターではなくセントポールにいるらしい。それから、鳩のエサは1ペンスではなく、2ペンスらしい。

◇ ハトおばさんって言ったら『メリーポピンズ』にも出てましたねぇ・・・ あの部分は何回見ても涙が出るんです「2ペンスの歌」(涙)
gon-218.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-db0b.html

◇ 私が1番好きな場面、あのセント・ポール寺院の鳩の餌売りのおばあさんの歌が素晴らしい。トゥーペンス(2ペンス)をタペンスと発音する、いや殆どタプンと聞こえるあの歌・・・白いドームの上に鳩の群れが舞い上がる。石段に腰掛けて、鳩の餌を与えるおばあさん・・・彼女は鳥の言葉を話し、夜には大きく広がったスカートの中に鳩を入れて眠らせる・・・
www.bestlife.ne.jp/hobby/travel/england/02/15.html

◆ 「2ペンスを鳩に」(Feed the Birds)。

◆ 調べがつかなかったが、はたしてウエストミンスター寺院に鳩おばあさんはいるのだろうか。

◆ 善光寺にも鳩豆売りがいたらしい。

〔まちBBS:2007/11/23(金) 20:13:52〕 昔の善光寺は、それはすんごい暇な寺でした。朝、事務所の職員の仕事は、鳩のえさやりだ。だってえさやらないと、鳩飢え死にしちゃうんだよ。大豆をバケツ一杯か二杯ざーっとまく。これが冬。夏は観光客がくるから、鳩は生き延びるけど冬は人っ子ひとりいない。しかし今はご存知の通り鳩はじゃまもの。豆売りばーさんどこにいったのかなー。景色の一部だったのに。
www2.machi.to/bbs/read.cgi/kousinetu/1048693199/l50

〔2007年12月08日〕 善光寺には鳩がつき物です。いつも境内には豆を売っているおばあちゃんが居られたのですが、最近は見かけません。豆売りは禁止になったのでしょうか。
uonononagare.wablog.com/1417.html

〔2008年01月17日〕 山門の辺りに、昔は、煮た豆を鳩の餌に販売しているおばあさんがいましたが、もう販売していないのかなあ?小皿に盛って販売していて、よく鳩にあげたものです。懐かしい思い出です。
sakatsume.naganoblog.jp/e71181.html

〔2008年05月27日〕 私が幼い時には、山門の横で鳩に豆をあげるための、豆を売るおばちゃんがいたのに、今はいなくなったのが寂しい感じもある。
fastical.naganoblog.jp/e112561.html

〔2009-05-08〕 善光寺は20年程前、信州に嫁入りした友人を訪ねたときに来て以来、今回は2度目。〔中略〕 境内では鳩豆を売っていて、買ったとたんに鳩に襲われた記憶は鮮明。今は鳩豆売りのおばあさんもいないし、鳩も数えるほどしかいなかった。フン害がひどかったんだろうな。
yokoyamaaa.blog5.fc2.com/blog-entry-648.html

〔2009-11-15〕 豆を貰えなくなり、少し減った鳩。子供達が小さいとき、豆を鳩にあげるのが楽しみだったが、フン害や鳥インフルエンザの影響で豆売りがいなくなった。文化財を守るためにはしかたないのだろうが少し寂しい。そういえばメリーポピンズに豆売りのおばあさんがでていた。鳩の豆売りは世界共通なのかな。豆を貰えなくなった鳩。どこで餌を食べているのだろう。
marinezumi.blog102.fc2.com/blog-entry-884.html

◆ 善光寺の鳩豆売りの「おばあさん」は、「いつのまに」いなくなったのか。

〔信濃毎日新聞:2003年08月30日〕  長野市の善光寺境内で名物のハトの豆売りが、今月限りで姿を消す。軒下が売り場になっている三門(山門)が九月から解体修理工事に入り、善光寺が「これを機に営業を終わりにしてもらう」と決めたため。豆を売るおばあさんは「いい潮時」と話すが、明治から続くともいわれ、参拝客になじみの深い豆売りの終了を惜しむ声は多い。
 善光寺事務局は昨秋、傷みが激しい三門大修理に着手。工事は九月から本格化し、門全体を作業の足場で覆うのに伴って、軒下の売り場スペースがなくなることになった。一七五〇(寛延三)年の建立以来、初の大規模修理で、足場が撤去されるのは五年も先。事務局は「境内にほかに雨風を避けられる場所がない」として、豆売りをやめてもらうことを決めた。「集まってくるハトのふんも門を傷めてきた原因の一つ」(善光寺関係者)との指摘もあった。
 ハトの豆売りがいつから始まったかは定かでないが、善光寺大勧進敷地内にあった養育院が一九一二(明治四十五)年四月、三門下に亜鉛ぶきの売店を作った―との記録がある。「養育院のお年寄りが養育院の維持管理を賄うために始めたと類推される」と大勧進の柄沢滋執事。
 近年は三門軒下の四隅に売り場があり、辞める人が次に始めたい人に売り場を引き継ぐ形で続いてきた。ここ数年は店主の高齢化などで売り場は二カ所に減っていた。
 二十二年間売ってきた溝口キクさん(83)=同市往生地=は、常連客に「今月で終わりだよ」と声を掛けている。一九四五(昭和二十)年三月、東京にあった自宅が大空襲で焼かれ、夫の郷里の長野に疎開。行商などをした後、宿坊で働いていた縁で豆を売り始めた。
 毎日座る木製の台は、代々の店主から受け継いできた。バケツの水で軟らかくした大豆は一盛り百円。始めたころから変わらない。「不況のせいか、ハトへの関心が薄らいだのか、年々売れなくなっていた。でもいろんな人と知り合いになれた。いい潮時」
 ほぼ毎日、健康維持のため歩いて参拝に通う同市北石堂町の女性(66)も、境内で溝口さんと言葉を交わすのが日課。「善光寺にたどり着いて話す相手がいなくなるのは寂しい」。二十八日、神奈川県から子どもと参拝に訪れた男性(37)は「豆をまく子どもたちの楽しみが減りますね」と残念がっていた。

www.shinmai.co.jp/news/2003/08/30/016.htm

◆ 2003年08月31日か。浅草寺から鳩豆売りが消えたのが、やはり同じ年の12月31日。2003年は、鳩豆売りの歴史のなかで、どうやら重要な年だったようだ。

◆ ワタシが善光寺を訪れたのは、2005年2月2日。山門(三門)はまだ修理中だった。写真には鳩が写っているが、鳩豆売りのおばあさんはもういなかったので、写っていない。上に引用した新聞記事によると、かつては、この門の四隅に鳩豆売りがいたというから、まるで四天王のようだったろう。最後の「ここ数年」は、二カ所に減ったそうだから、まるで二天王のようだったろう。

〔気象予報士Kasayanのお天気放談:2009年11月25日〕 山門北側両脇には、内部を見学するための階段が設置されています。40年前・・・いや・・もっと最近まででしょうか・・・ この場所には、ハトにくれる(長野の方言ですね・・・「あげる」「やる」ことをこういうんですよね)豆を売っているオバさん・・・お婆さんだったかな?・・・がいました。小さなコタツにあたりながら、直径10センチほどの使いこんだ木製のお皿の上に、黄色い豆を十数粒並べていました。私の記憶の中では、この二人のお婆さんが山門の景色と一体化しています。
kasayan.naganoblog.jp/e355633.html

〔風待月の庵:2003年4月9日〕 私が子供の頃から山門前の左右に1対の鳩の豆売りのおばあさんがいた。〔中略〕 どういうものかいつもふたりとも「おばあさん」だった。子供の頃見たおばあさんが生きているとは思えないから、どこかで交代があるのだろうけれど、いつ見ても同じくらい年取ったふたり組。「70歳以上に限る」という就職条件があるんだろうか。〔中略〕 お二人を見ているとメアリー・ポピンズに出てくるウエストミンスター寺院の豆売りのおばあさんを思いだしてしまう。
www.geocities.co.jp/Bookend-Christie/5898/b/zen04.htm

◆ もしかすると、おばあさんは「ここ数年」以上も前からずっと「二人」だったのかもしれない。

◆ 浅草寺の境内に「鳩ポッポの歌碑」というのがある。「鳩ポッポの歌」といっても、「ぽっぽっぽ、鳩ぽっぽ、豆がほしいか、そらやるぞ」で始まる歌とは別もので、歌詞は、

♪ はとポッポ はとポッポ
  ポッポポッポと とんでこい
  御寺の屋根から下りてこい
  豆をやるから皆たべよ

  「鳩ポッポ」(作詞:東くめ,作曲:滝廉太郎)

◆ お寺の屋根に鳩はいたが、じっとして下りてこない。なぜって、だれも豆をやらないから。

♪ いろんな国から来た人で 浅草寺は今日もにぎやか
  仲見世通り抜ければ 晴れ空と香炉の煙
  いつもの様に鳩豆を 買う僕の目に飛び込んできた
  鳩豆を自分で食べてる The tourist from somewhere

  The Students 「ハトマメ~Say Hello To The World.~」(作詞・作曲:槇原敬之)

◆ 外国からの観光客は大勢いたが、「鳩豆を自分で食べてる」マヌケはひとりもいない。見たくても見られない。なぜって、鳩豆はもう売ってないから。浅草寺の鳩豆売りはいつのまにかいなくなってしまった。

〔書を捨てて街へ出よう:浅草寺(2006年5月10日)〕 浅草寺にはこれまでにも何度か来ている。この場所はハトがいっぱいいた記憶があるのだが、どうも今日は少ない。寒いせいだろうか? そう言えば、以前あった「はとまめ」の売店も無い。よく見ると、あちらこちらにハトに餌をあげるのを禁止する張り紙が貼ってある。何と、いまやこの場所でハトに豆をあげることはできないのである。なんとびっくり。そうすると、この場にある「鳩ポッポの歌碑」も今や過去の想い出になってしまっているようだ。
www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/POI/tokyo/sensouji.htm

〔360@旅行ナビ:浅草寺〕 昔、訪れたときは、ハト豆売り場があり、鳩がたくさんいたのに今回は見ることができませんでした。エサやり禁止となったようで、本堂近くに立っている「鳩ぽっぽの歌碑」が寂しく見えました。
www.360navi.com/photo/08tokyo/05asakusa/01sensoji/10index.htm

〔浅草たそがれ幻視行〕 「鳩ポッポ歌碑」のすぐそばには、つい最近まで鳩豆を売る小屋があった。それがいつのまにか撤去され、かわりに「鳩に餌を与えてはならない」と書いた真新しい看板が立つ。野鳥を介した健康障害を懸念してのことらしく、結果、境内の鳩は激減した。
www.ezoushi.com/genshikou/g-12/g.html

◆ 「いつのまにか」なくなってしまった鳩豆売りの小屋。その「いつのまにか」とは、いつだろう。

〔朝日新聞:2004/05/16 16:29〕  東京の下町名所、浅草寺からハトの豆売り小屋が消えた。ハトと遊ぶ光景は庶民の生活に溶け込んでいた。「愛鳥週間」のいま、境内にはエサやりを禁止する看板が立っている。
 「観音様とハトのかかわりは古いんです」と寺の関係者。大正時代からすでに露天商が豆を売っていたという。
 小屋は、雷門から仲見世を過ぎて左手の五重塔近くにあった。地元の人が敷地を借り、戦後間もないころに建てた。1袋100円。トウモロコシが混ざった配合粒餌だ。隣には「鳩ポッポの歌碑」も建てられた。
 エサをやるとハトが来る。かわいいのでまたエサを。こんな繰り返しでハトは増えていった。
 一方でハトの被害も広がった。屋根や門に糞(ふん)害防止の金網やネットが設けられたが、期待したほどの効果はなかった。
 「ベランダが汚れ、洗濯物が干せない」「飛んできたハトに頭をはたかれた」。地元台東区への苦情は絶えず、皮膚炎やアレルギーを心配する声も多かった。糞や羽毛を吸い込まないようマスクをするお坊さんもいた。
 「観音様の土地だけに殺生はできない。でも、数を減らす必要はある」と、区が広報誌などを通じてエサやり禁止を呼びかけたのは昨年夏だ。
 「寂しいが、仕方ない」と寺も大みそかに小屋を撤去した。4カ月余りが過ぎた今、浅草寺のハトの数は以前より少なくなっている。
 問題のハトは「ドバト(土鳩)」と呼ばれる。原種は、アフリカ北部から中国に分布するカワラバトだ。奈良時代に日本に持ち込まれた。通信用に改良された「伝書バト」の中から野良化したものもいる。1年に何度も卵を産む。
 「食べ物を人間に依存するようになってしまい、生態系が狂ってしまった」と環境省鳥獣保護業務室。雨のあたらない建築物内に巣を作る。浅草寺には約3000羽が生息していたとみられる。
 ハトの糞害は各地で問題になっている。広島の平和公園では、94年から売店でのエサの販売が中止された。同年から4年間で3分の1の約1800羽に減ったという。
 上野公園では、噴水広場付近でポップコーンが売られている。台東区によると、売り上げの一部は管轄する都の収入になっているといい、既得権益を理由に売店はエサ売りを中止しそうにない。川崎大師(神奈川県)でも、1袋100円で豆が売られている。
 靖国神社は昨年、豆の自販機を撤去した。代わりに神社が鳩舎(きゅうしゃ)で純白のハトを飼育している。音楽を流しながらエサを与え、管理する方法だ。「個体数を一定のレベルで維持できる」と野鳥の専門家も注目している。
 「ハトにエサをあげないで」というパンフレットを環境省が全国の自治体に約10万部配ったのは01年。「エサを与えないと、雑草や樹木の種子、芽などを自分の力で食べる。これがハトの本来の姿」と呼びかけた。
 都市に生息する鳥と人間の関係を調べている「都市鳥研究会」(埼玉県和光市)によると、ハトは都市の環境を最大限に利用して種の維持・繁栄を図っているという。
 (1)電線に針金を植え込む(2)窓辺を急角度にし、休息地として利用できないようにする(3)カラスの声で脅すなど色々な対策が考えられたが、いずれも対症療法でしかない。
 同研究会事務局長の川内博さんは「エサを与えればハトは増える。この相関関係ははっきりしている。エサやりを制限することは時代の流れだ。生命力が強いので絶滅の恐れはない」と話している。

www.asahi.com/national/update/0516/010.html

◆ この記事によれば、小屋が撤去されたのは、2003年12月31日のことらしい。それ以前から浅草寺には何度も足を運んでいたというのに、ワタシは鳩豆売りの小屋がなくなっていたことにまったく気がつかなかった。いや、そもそもそんな小屋があったことさえ気がついてはいなかったのだ。いったいなにを見ていたのだろう。そんな具合だから、残念ながら、鳩豆売りの小屋の写真を撮ってはいない。なにかが消え去るとあらかじめ知らされていれば、それを記録しておこうと多くのひとがそこを訪れるだろう。けれど、消え去るものは、たいていの場合、ひっそりとだれにも知られずに消え去ってしまい、消え去ったあとになって初めて、消え去ってしまったことに気がつくものだ。

◆ と、そんな言い訳を考えながら、念のため、2003年12月31日以前の浅草寺の写真を探してみたら、なんとまあ、あったのだ、「はと豆」と書かれた小屋の写真が。右隣には「鳩ポッポの歌碑」が写っている。日付けは、2003年10月21日。これには豆鉄砲をくらった鳩ぐらいに驚いた。いやはや、まったく記憶にない。そういうわけで、今度はまた別の言い訳を考えなければならなくなった。