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◆ ジャーナリストの高野孟がこんなことを書いていた。 ◇ 思い出すのは、93年のJリーグ発足の1年ほど前、川淵三郎チェアマン(当時)と懇談した際に彼が口にした言葉である。 ◆ 続けて、高野は、「体育の本質は教練であり、つまりは軍事訓練であるから『日の丸のために死ね』ということになる。それで暴力も横行する」と書いていて、たしかに、最近のスポーツにからんだ不祥事の数々は、根底に「スポーツ」と「体育」の違いという問題が横たわっているようにも思える。 ◆ こういう文章は「小論文」にうってつけだろう。以下の文章を読んで、「スポーツ」と「体育」の問題を自由に論じなさい。こんなのはどうか。 ◇ 川淵三郎チェアマンは三郎というからには、三男なのであろうか。少子化が進む現代の日本から考えれば、少なくとも男の子を3人は産んでいるということだけでも、その母は表彰されてしかるべきであろう。しかし、かつては当たり前のことだった。有名人から実例を挙げれば、北島三郎、中村勘三郎、柴田錬三郎、篠田三郎、古畑任三郎、時任三郎、坊屋三郎、若山富三郎、嵐山光三郎、大江健三郎、城山三郎、坂東玉三郎、阪東妻三郎、伴淳三郎、風の又三郎、家永三郎など。しかし、三郎くらいでは表彰されるどころか、バカにされるくらいだったかもしれない。遠山金四郎に天草四郎、高見山大五郎にあっと驚く為五郎、六七がなくて、たこ八郎に岡八朗、宮藤官九郎に源九郎義経、椿三十郞、姿三四郎、松井八十五郎(近藤勇の義父)、はてはうしろの百太郎まで(参考サイト:《「一郎・二郎・三郎‥さん」あれこれ - Milch's blog》)。 ◆ 姿三四郎を「34」の位置に並べている点が減点対象になるかもしれない。また、実例ではない部分も注意深い採点者の手にかかれば減点対象になるかもしれない。しかし、「スポーツ」の問題も「体育」の問題も「論じて」いないので、そもそも減点すべき点数がないかもしれない。では、こんなのではどうか。 ◇ 言語の点から「スポーツ」と「体育」の問題を考えてみることにする。「スポーツ」というのは、英語の「sports」をカナ書きしたものだが、これは「sport」の複数形なので、サッカーが「sports」であるとはいえない。つぎに、「体育」であるが、本来これは「たいいく」と読むべきにもかかわらず、会話では現代日本人のほとんどがこれを「たいく」と発音している。このような現状においては、パソコンの漢字変換で「たいく」と入力すれば「体育」と変換されるようにするなどの実情に合わせた対策も必要であろう、と書こうと思ったが、いま「たいく」と入力したところ、無事「体育」と変換されたので、この文章は削除する。 ◆ これはスポーツ「と」体育の問題を、まったく別個にではあるが、扱っているので、採点はしてもらえるかもしれない。ただし、論じていないことにはかわりがない。さらに、こんなのではどうか。 ◇ 「チェアマン」というのは、直訳すれば「椅子男」である。いったい、この男はいかなる椅子だったのであろうか。安楽椅子であろうか。また、「(当時)」ということは、現在「椅子男」でないということになるが、だとすれば、この椅子男は、何男へと進化したのだろうか。この点について、進化論の観点から、いずれ考えてみたい。 ◆ 小林秀雄は大学の試験で、「かかる愚問には答えず」とのみ記してその試験を放棄してしまったことがあるらしいが、これはちょっと喧嘩腰すぎるだろう。その点、この「いずれ考えてみたい」は、角が立たないみごとな表現である。もちろん、その場でなにか書くべきことが思いつけば「いずれ」を削除し、以下に続ければいい。あと、体育館の裏での甘酸っぱい思い出話などでも書いておけば、白紙で提出するよりは高得点が期待できるだろう。 |
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◆ さきほど「安楽椅子」を『言海』という古い辞書で調べてみたが、載っていなかった。その代わりに、となりのページにこんなのを見つけた。たまたま雨も降ってるし。 ◇ あめ-ふらし (名) 雨降(一)動物ノ名、薩摩ノ山中ニアリテ、雨中ニ出ズ、形、あわびニ似テ、痩セテ、莞無シ。雨虎(二)又、海産ノ動物ノ名、形、なめくぢニ似テ、大ク、黒褐雑駁ブチ色ナリ、頭ニ二ツノ肉角アリ、コレニ觸ルレバ、背ヨリ紅紫ナル汁ヲ噴キテ身ヲ隠スコト、烏賊ノ墨ヲ噴クガ如シ。 ◆ 「ブチ」は漢字で「雑?」と書いてあるが、ちょっと読めない。「あん」と「あめ」だと、ページがだいぶ違うのではないかと思われる方もおられるかもしれない。仕組みはよくしらないが、この辞書では、「あむ」の後に「あん」が来て「あめ」につながっている。そういう順番。だから、「アメフラシ」を見つけることができた。 ◆ で、(二)のアメフラシは、みんなが知ってるアメフラシだが、(一)の「アメフラシ」とはいったいナニモノであるか? 妖怪のタグイだろうか。そのうち調べてみることにしよう。 ◆ 「雨降らし」といえば、「雨晴らし」のハナシを以前に書いたのを思い出して読んでみたが、内容はすっかり忘れていて、読み直して、また改めて勉強になった。 |
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◆ 安楽椅子などというコトバは、おそらくもう死語なのかもしれない。その代わりに安楽死などというコトバが生まれたが。 ◇ 珍しい秋晴れの日に縁側へ出て庭をながめながら物を考えたりするのにぐあいのいいような腰の高い椅子があるといいと思う。しかし近ごろは昔あったような高い籐椅子はもうめったに見当たらない。みんな安楽椅子のような扁平なのばかりである。 ◇ ××○○会社には、一脚百何十円とかする鞣皮張(なめしがわばり)の安楽椅子が二十脚も並んだ重役会議室があった。が、設備のある医務室というものはなかった。 ◇ あそこに置いて在るボロボロの籐の安楽椅子に身を横たえて、 ◇ K君の部屋は美くしい絨氈(じゅうたん)が敷いてあって、白絹(しらぎぬ)の窓掛(まどかけ)が下がっていて、立派な安楽椅子とロッキング・チェアが備えつけてある上に、小さな寝室が別に附属している。 ◇ 電灯の明るく照っている、ホテルの広間に這入ったとき、己は粗い格子の縞羅紗(しまらしゃ)のジャケツとずぼんとを着た男の、長い脚を交叉させて、安楽椅子に仰向けに寝たように腰を掛けて新聞を読んでいるのを見た。 ◆ ところで、引用した安楽椅子はみな同じものだろうか。そもそも安楽椅子とはなんだろう。辞書を見ると、 ◇ ひじ掛けつきで柔らかくゆったりとした休息用のいす。(大辞泉) ◆ 「ひじ掛け」椅子であることは間違いないようだが、なにが「安楽」なのかということについては、それぞれ説明が異なる。「柔らかくゆったりしている」から安楽なのか、「スプリングがよくきいている」から安楽なのか、はたまた「体をあずけて楽な姿勢で座れる」から安楽なのか。さらには、 ◇ 安楽いすとは、休息用のひじ掛けの付いた張りぐるみいすの総称である。 ◆ これなどは、ひじ掛け自体が「安楽」の根拠であるように読める。あとふたつ。 ◇ 〔家具木工用語辞典:安楽椅子とは〕 休息用のひじ掛け椅子。普通の椅子より大きく、スプリングを設け、よりかかりがあるもの。 ◇ 〔自立訓練法のやり方〕 安楽椅子とは、頭の部分まで支えがある椅子です。 ◆ これらを読んで、それぞれの安楽椅子の定義から思い浮かべられるイメージは必ずしも一致しないと思う。《Wikipedia》は、 ◇ 〔Wikipedia:椅子〕 ロッキング機能に加えて、背当て部分が倒れるなどのリクライニング機能が加わった椅子の総称。ときにロッキングチェアと同義で扱われる場合がある。 ◆ と書いているが、これはちょっと特殊な定義ではないだろうか。まあ、ロッキングチェアもまた「安楽」であろうことは、疑いのないところだろうが。 |
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◇ 美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。 ◆ と言ったのは小林秀雄だが、「白鷺という様な鳥はいない」という様なことを言うひとが、なぜだか多い。 ◇ 〔東京書籍:花ちゃん・オー君・モンタ博士のてくてく自然散歩シリーズ〕 「うわあー。まっ白い鳥だね。シラサギかな?」 ◇ 毎年、京都の八坂神社や東京の浅草寺などで行われる「白鷺の舞」をご存知でしょうか。白駕の装束に身を包んだ演舞者がゆっくりと舞う、なかなか優雅な行事です。シラサギというと、全身純白の姿から、気品とか優雅などのイメージを一般では持っようです。 ◇ 〔あわら市のシンボル(花・木・鳥)(案)提出された意見の概要と市の考え方〕 ご指摘いただきましたように、白鷺は白い鷺の総称で、白鷺という名の鷺がいるわけではありません。 ◇ 〔いきもの通信 Vol.311[今日のいきもの]シラサギという名前の鳥はいない〕 例えばまっ白なサギを見つけたならば、あなたはそのサギをなんと呼びますか? ◇ 〔姫路科学館:科学の眼 No.432〕 天下の名城姫路城は1993年12月、法隆寺とともに日本で初の世界文化遺産に指定されました。姫路城は白く美しい白壁が天を舞うシラサギのように見えるので、別名「白鷺城」とも呼ばれています。 ◆ 書かれていることは概ね理解できるけれども、どうしてもわからないことがひとつある。最後の引用の、 ◇ 残念ながら、日本には「シラサギ」という名の鳥はいないのです。 ◆ の「残念ながら」だ。白鷺が種の名前でないからといって、なにを残念がる必要があるのだろう。コサギだろうがダイサギだろうが、白鷺はあいかわらずそこにいるではないか。こんなとき、ワタシはやっぱり土星人なんだなと思って、ちょっと悲しくなる。 ◆ サギ師の悲しみも、あるいはこんなものだろうか。だますつもりはなかったんです。あなたが勝手に期待して勝手に幻滅しただけなんです。それもわたしのせいですか? シラサギをサギ師呼ばわりするのはやめよう。地球人というのは勝手なものだ。勝手にシラサギと呼び、勝手にお前はシラサギじゃなかったんだねと残念がる。「残念」という気持ちから騙されたという怒りへの移行は瞬時に行われることだろう。願わくば、憎悪にまで達しないことを。 |
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◆ 懲りもせず、同じ文章を三度引用すると、 ◇ ただ、こういうことは、たまにある。私か特にこういう奇妙な偶然にめぐまれているというわけでもなく、誰にでもあることだろう。ふだんならば長い時間の軸の上にちりぢりばらばらに置かれていることごとが、たまたま集まってくる。いくらか長く生きていると、そういうことがときどき起こるように思う。 ◆ で、前回なにを書こうとしていたかというと、宝くじのハナシ。ちょっと前に、喫茶店でコーヒーを飲んでいると(居酒屋でビールではない)、背後からこんな会話が聞こえてきた。 ◇ おまえ、知ってるか。宝くじてのは、ありゃ八百長だ。当たるやつは、最初から決まってんだ。 ◆ ちらりと見ると、オヤジがふたり。繰り返すが、居酒屋ではなく喫茶店でのハナシ。相方のおやじは適当に聞き流していたようだったが、苦いコーヒーがさらに苦くなったのではないかと思う。しかし、こういうことを言いたがるひとはたしかに一定の割合でいるもので、けして少なくはないだろう。もちろん、競馬場に行けば、「八百長だ!」と叫んでいるオヤジは山ほどいて、ハタで聞いていると、あまり気分のいいものではないけれど、本人にとっては、一種のストレス発散で、これは仕方がない。自分の馬券が紙くずになったから、「八百長だ!」と言うので、つぎのレースで大穴でも当てれば、叫ぶ内容が「獲った!」に代わるだけのハナシである。それに比べると、宝くじ八百長オヤジは、どうも精神衛生上よろしくない。はっきり言うと、ハタで聞かされただけでも不愉快である。そういうことが言いたいんなら、喫茶店ではなく、宝くじ売り場に行けばいいのにと思う。 ◆ 宝くじが八百長かどうかは知らない。しかし、その知らない度合いは、宝くじ八百長オヤジが「宝くじが八百長だ」と知っている度合いと同程度だろう。 ◆ ちょっと気になったので、ネットで調べると、出てくるは出てくるは、すっかり質問サイトの定番の質問になってしまっている。あちこちに八百長オヤジが転がっている。キリがないので、ひとりだけ紹介する。 ◇ あのね、宝くじはすでにあたる人はきまってるの。年末ジャンボの矢で射る装置にしたってあらかじめ発射タイミングをきめることができるの。ロトもそう。ナンバー書いたボールコロコロもいくらでも操作できるのよ。 ◆ 宝くじ関係のもうひとつの定番テーマが、「宝くじ高額当選したことありますか?」という感じのもので、《発言小町》を見てみると、これも定期的に話題になっているようだ。 ◇ 「ジャンボの1等当たりました」「こんにちは、実は私も宝くじが当たりました! 8桁数字!」「○億当たりました。とりあえず夫に電話で報告」「指1本立てて、ゼロが8個付きます」 ◆ などなど。ひとつのトピに高額当選者がうじゃうじゃ名のり出てくるのである。これには笑ってしまった。実際に億万長者になったひとも中にはいるのかもしれないが、大半は自称高額当選者だろうと思う。他人などどうでもよい。じつは……。ワタシも当たってしまったんである! いや、じつは、これが書きたかっただけなんだが。証拠をお見せしよう。
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◆ たまたま話は好きだが、またまた話となると、ちょっとため息。 ◇ 二ヵ月ほど前に、新聞のエッセイに明石のことを書いた。記憶に深く残っている土地のことを書いてください、と頼まれたのである。明石に住んだ期間は一年にも満たなかったが、好きな土地だった。そのことを書いたのである。 ◆ と長々と引用をして、さあ、これから、いろいろなことをだらだらと書こうと思っていたのだが、そうもいかなくなった。アタマのなかで井上陽水がこう叫ぶ。 ♪ 計画は全部中止だ 楽しみはみんな忘れろ
◆ さて、タイトルを「またまた話」か「ちょっとため息」のどちらにするべきか? |