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◆ 先に『役にたたない日々』という本からの引用をしたが、この佐野洋子というひとについては、さきほどまで名前以外ほとんどなにも知らなかった。で、谷川俊太郎の配偶者だった時期があるということを知って驚いた。ついでに言えば、さきほどまでは、なんとなく佐野量子(たんに名前が似ているというだけで)似の顔をイメージしていたのだったが、それはさておき、 ◇ 〔nikkansports.com〕 日本サッカー協会は18日、女子の国際親善大会アルガルベ杯(3月6~13日、ポルトガル)に参加するなでしこジャパン23選手を発表した。昨年までの中心選手のMF澤穂希(34=INAC神戸)MF宮間あや(28=岡山湯郷)を外し、19歳のMF田中陽子(INAC神戸)、18歳のFW田中美南(日テレ)ら6人を初選出するフレッシュな陣容。佐々木則夫監督(54)は、今年9月の親善試合までは若手中心のメンバーで戦う意向を示した。〔中略〕 アルガルベ杯に向け、ロンドン五輪で平均年齢25・83歳だったなでしこジャパンが、23・04歳と大幅に若返った。
◇ 〔FNNニュース〕 3月に行われる女子サッカーの国際大会、アルガルベカップに向け、なでしこジャパンが合宿をスタートさせた。澤穂希選手(34)や宮間あや選手(28)をあえて外し、10代の選手など、若手を多く起用。フレッシュな「新生なでしこジャパン」が誕生した。その平均年齢は、ロンドンオリンピックでおよそ26歳だったのに対し、今回のメンバーは23歳と、3歳近く若返った。中でも注目は、19歳の田中陽子選手。 ◆ これは同じ題材を扱った違う記事。ワタシには、日刊スポーツ(上)の「ロンドン五輪で平均年齢25・83歳だったなでしこジャパンが、23・04歳と大幅に若返った」という表現にちょっとびっくりしてしまった。下のFNNニュースでは、「その平均年齢は、ロンドンオリンピックでおよそ26歳だったのに対し、今回のメンバーは23歳と、3歳近く若返った」という表現。ワタシには、これがふつうの書き方に思える。「25.83歳」と「23.04歳」の小数点以下2桁の数字は、かなり異様ではないかと思ったのだ。小数点以下2桁の数字などというのは、100メートル走のタイムならいざしらず、年齢には不必要ではないだろうか? 思わず、ワタシははたしていま何歳なのだろう、と考えてしまった。5月20日で49歳になるので(なるのか?)、いまは――ちょっと電卓で計算してみるが――48.78歳ということになるのだろうか? 「25.83歳」と「23.04歳」は平均だから、問題ないのでは? と思うひともいるだろうが、この平均はそもそも、ワタシが今したように、誕生日に基いて計算されたものなのだろうか? それとも、たんに「34歳+28歳+19歳+…」とふつうに使う年齢を足して人数で割っただけのものなのだろうか? 後者だとすると、この平均値の小数点以下2桁の数字には、見た目ほどの正確さはないということになる。あるいは、ワタシの「48.78歳」を「48.7835616438歳」と書けば、それだけ正確さが増したということになるだろうか? そこまでの細かさに対応するには、誕生日だけでは到底足りず、さらに誕生時、誕生分、誕生秒までのデータがあったとしても、まだ足りないということになるだろう。生まれてまる1日の赤ちゃんは、約0.00273976歳ということになる。ロンドンオリンピックの開会式の日に生まれた赤ちゃんは、16日後の閉会式には、約0.04385616歳になっているだろう。なでしこジャパンのメンバーも、オリンピックの期間中に、同じだけ「年を取る」わけで、「ロンドン五輪で平均年齢25.83歳だった」などという記述は、これが開会式の時点での数字だとすれば、閉会式の時点では、はやくも約25.87歳に書き換えなければいけないことになる。こんな数字に意味はないだろう。 ◆ というようなことを考えていたら、もう十年以上も前に、質問サイトの《教えて goo!》で、「人間が1.36人って変ですか?」という質問をしたことがあったのを思い出した。もう十年以上も前に、と書いたが、この質問の投稿時間は、「2002年4月17日の午前0時21分」で、これも計算すれば、もう10.8767年前に、と書くこともできるだろう。書くこともできるが、なんの役にも立たないだろう。10年10ヶ月前なら、ちょっとはましか? ◆ せっかくだから、十年前の質問をいま読み返してみたが、なんの進歩もない、というか、十年前よりだいぶ堕落した気がしないでもない。とくに数字には弱くなった。2桁以上の数字をずっと憶えている自信はない。いまも電卓の数字を引き写すのに2つずつ憶えて書いた。 |
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◇ 「チャーリー・ブラウン。たったいま信じられないようなフットボールの試合を見たよ」。ある日曜日、ライナスがこう言う。 ◆ これも、とくに書き加えることはなにもないのだが、せっかくだから、すこし書く。スリルとサスペンスというようなことで考えると、ライナスのセリフは長ければ長いほどいい。これをさらにさらに延長して、どんな本でも、その本の最後にチャーリー・ブラウンの「相手チームはどんな気持ちだったかな」というセリフを勝手に付け加えてみるのはどうだろう。小説を書く人なら、書き終わった小説の「完」のページのその裏に、「相手チームはどんな気持ちだったかな」というセリフに相当する、その小説に合った適当なコトバを考えて、1行さりげなく記しておく。小説を書かないふつうの人なら、買ってきた本を読み始める前に、自分でそのようにする。まあ、そんな具体的なことまで考えなくてもいいのだけれども、とにかく、このチャーリー・ブラウンのコトバには、それ以外の一切合切をひとつの大きな「カギカッコ」に封じ込めてしまう、とんでもない威力があるだろうと思う。そういえば、 ◆ と思い出してしまったのだが、高校生のころに『エンドレス・ラブ』という映画(いま調べると、日本公開は1981年12月5日)をカップルで観に行った同級生がいた。そういえば、ワタシがはじめて女性と観に行った映画は、なぜだか『がんばれ!! タブチくん!!』だった(1979年11月10日公開)。で、『エンドレス・ラブ』を見終わったあとに、男が女にこういったらしい。「終わらない恋愛なんてない」(正確なセリフは関西弁なので「~あらへん」だったかもしれないが)。女がどういう返事をしたのかはしらない。そもそも男のほうも冗談のつもりだったのだろう。あるいは大人の振りをしてみたかったのかもしれない。その男はワタシの友人だったが、その後その女性と別れて、自らのコトバを実証した。その女性がその次につきあったのがワタシで、ワタシはエンドレスラブというものを信じていたのだったが、これはもうチャーリー・ブラウンとはなんの関係もないハナシである。いやはや、妙なことを思い出してしまった。 |
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◇ 前々から思っていたが、オサマ・ビンラディンという人は立派な風格をしている。哲学的かつ知的で姿が優美静謐で目が深い様に見えてしまう。世界中から憎悪されているが。 ◆ 下線部分の文章がちょっと変だが、それはさておき、上の文章から他人(ひと)がどのようなことを読み取り、感じ取るのか、私は知らない(この文章を読みながら、ビンラディンやブッシュの顔をじっさいに思い浮かべるひとはどれくらいいるのだろう)。ワタシは最初、この「私は知らない」について書こうと思ってこの文章を書き写したのだが、気が変わった。やはりこれは顔のハナシだろう(9・11のことかもしれないが)。 ◇ 養老 それをブータンでものすごく感じた。坊主がみんな違う顔をしてるんですよ。同じ坊主で同じ服装をして同じところに暮らしているにもかかわらず。顔が全部違う。僕は、「面魂」とか「面構え」という言葉が、日本では死語になっていると気がついた。なぜみんながそういうふうに個性的なのかと考えたときに、各人その所を得ているからだなと思った。生まれたまんまの性格が伸びていって、それぞれが所を得るような形で僧院が運営されているんです。 ◆ それで、あれこれ考えてみたが、顔について個人的になにか書きたいことがあるかというと、とくにない。そのことに気がついた。そういえば、人の顔にはあまり関心がないのだった。 |
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◆ 「暦の上では」の正しい理解の仕方の実例をひとつ(しかし、よくもまあこんなに都合よく見つかるものである)。 ◇ 「もう春ですよ、ひろみちゃん」と祖母に言われ、驚いた。 ◆ 線を引きながら、文章を読むのは楽しい。あるいは、線をたくさん引けるような文章を読むのは楽しい。鼠にひかれる(小学生なのに、こんなコトバをよく知っていたものだ。ワタシなど、ちょっと前に知ったばかり)。宝物の箱根みやげの千代紙貼りの入れ子の箱とタミー人形。はて、タミー人形とはなんだろう。それから、そのタミー人形の着せ替え用の服。「母が見よう見まねで二着ほど縫ってくれた」と書くだけで、昭和の母のイメージがとてもリアルに感じられる。やさしいお母さん。夜なべをして手袋も編んだかもしれない(これは、もう少し古そうだ)。ゆたんぽ。しもやけ。霜柱。今年はほんとうに寒い。外と中の温度がさほど変わらない、隙間だらけの木造アパートは寒い。昭和のなつかしい冬の感じをひさしぶりに味わっている。さすがに水道管が凍りはしないが。 ◆ 霜柱も立つが、春も立つ。どのように立つのかについては、〔中略〕のところに書いてある。冬も、夏も、秋も、みんなそれぞれの仕方で立つだろう。それから、茶柱も立つ。今度は茶柱のハナシでも書くことにしよう。いや、その前に「ほら」のハナシも書いてみたい。いろいろと忙しい。 |
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◆ 「には」のハナシを書いたので、今度は「では」のハナシを書くことにしよう。では、 ◇ でわではにわににわにわとりがいる。でわではうらにわにはにわにわとりがいる。 ◆ またニワトリになってしまった。これでは、あまり「では」の出る幕がないではないか。がんばってあれこれ「では」を探してみたが、そもそも「では」はあんまり出たがりではないのかもしれない。きっと出不精なんだろう。「では」のハナシはやめて、「上では」のハナシにする。ではでは、 ♪ 暦の上ではもう春なのに ◆ いや、まったく。寒いどころではない。今日も寒い。おしまい。ああ、終わっちゃったよ。では、さようなら。 ◆ 以下、おまけ。「では」ではなくて「の上」のハナシ。《教えて!goo》に変な質問。この質問者、質問する立場なのに、妙にえらそうなのである。 ◇ 皆さんは「暦の上では・・・」の正しい意味を説明できますか。 ◆ もちろん、こんな質問に回答するひとは少ない。正しい意味などさっぱりわからないが、とりあえずワタシが回答みると、こんなところか。まず暦というのは今のコトバでいえばカレンダーです。年末にあちこちでタダで配ってる、あのカレンダーです。好きなのを買うひともいるようですが、ワタシは買いません。買いませんが、せっかくなら、1枚で1年分のものよりは、1ヶ月ごとで12枚のものがいいです。日めくりだとなおいいかというと、そういうわけでもありません。ずぼらなので、かえって使いにくくなるからです。そのカレンダーの上に、いろいろ書いてあるんですね。2月4日は「立春」とか。5月20日は「Saturnian の誕生日」とか(書いてなかったら、書き足しといてください)。「暦の上では」というのは、そういう意味です。「紙のカレンダーの上では」という意味です。まあ、紙じゃなくてもいいかもしれませんが。木とか金属とかプラスチックとか。でも、そういったおしゃれなカレンダーには、「立春」とか「Saturnian の誕生日」とかはあんまり書いてないと思うので、できれば紙のがいいです。それに、紙なら、「暦の中では」とか「暦の下では」とかになったりする可能性があまりないので、便利です。 ◆ 「~の上では」の「~」のところに当てはまるものは、いろいろある。「畳の上では」とか「ベッドの上では」とか「屋根の上では」とか「船の上では」とか「山の上では」とか「舞台の上では」とか「土俵の上」では。「雪の上では」なんてのもある。「机の上では」、ついで「計算の上では」というあたりから微妙になって、「歴史の上では」とか「理屈の上では」とか「経済の上では」とか、こうなってくると、そろそろ限界である。ワタシには、歴史の「上」とか理屈の「上」とかをイメージすることができない。さっぱりできない。 ◆ で、「暦の上では」というのは、上の例でいうと(デタラメだが)、「机の上では」と「計算の上では」のあいだくらいに位置するんじゃないか。「暦の上では」というコトバを聞いたときに、リアルに具体的なカレンダーを思い浮かべるひとが、減りつつはあるだろうけど、まだまだいるんじゃないか。と、そんなことを考えました。では、さようなら。 |
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◆ レイ・ブラッドベリの『二人がここにいる不思議』という短篇集があって(新潮文庫)、ずいぶん以前にタイトルに惹かれて、ブックオフの100円文庫で買ったのだが、読むのを忘れていた。たまたまなにかの拍子に、このタイトルに似た内容の「なにか」を書こうと思いつき、この本のことを思い出した。で、ぱらぱらページをめくってみて、「二人がここにいる不思議」という短編の原題が I SUPPOSE YOU ARE WONDERING WHY WE ARE HERE? であるのを知った。それはいいのだが、案の定、書きたいと思っていた「なにか」がなんだったのかを忘れてしまった。なので、書けない。しようがないので、この原題についてぼんやり考えていたら、冒頭のハナシを思い出したので、引用した。とまあこういう次第。 ◆ 中身をまだ読んでいないので、「We」というのがだれだかわからないけれども、だいたい「私たちがここにいるのはどうしてかな、って思ってるんでしょ?」というような意味だろう。もう少し原文の構造に忠実に訳すと、「『私たちはどうしてここにいるの?』とあなたは思っている、と私は思う」。とまあ、とくになんの不思議もないタイトルだが、「『私たちがここにいるのはどうしてかな、って思ってるんでしょ?』って思ってるんでしょ?」とすると、ちょっとは不思議か。英語では、I suppose you suppose I suppose you are wondering why we are here. になるのか。ワタシのアタマではせいぜいこれくらいが限界であるが、冒頭の「こだまのあとだま」と「師」はこれを数百回も繰り返したそうな。 ◆ 似たようなことを考えるのは、じゃんけんのときだろう。相手の裏を読んだはいいが、すぐに相手もこちらの裏を読んでいるに違いないと不安になり、さらにその裏を読んだものの、やはり相手もその裏を読むのではないかと疑念はつもるばかりで、さらに裏を読むべきか、それともさきほど裏を読んだのをやめて表に戻るべきか、いや待てよ、いま私がいるのは裏だっけ、それとも表だっけ、さっぱりわからなくなってきたぞ。アタマが真っ白になって、時間切れ。けっきょく出した手はいつもと同じで、やっぱり負ける。とそんなことを繰り返す。まったく成長のないやつだ。 ◆ 槇原敬之の「もう恋なんてしないなんて(言わないよ絶対)」という歌詞も、やや似ている。「もう恋なんてしないなんて言わないなんて絶対言わない」とでもすれば、この意味がわかるひとははたしてどれだけいるだろうか(ワタシはすでにわからない)。 |