◆ 「神社前」というバス停の前に、ちゃんと神社があった。諏訪神社。あたりまえのことかもしれないけれど、ちょっとうれしい。
◆ 「碍子工場前」というバス停の前に、ガイシ工場はもうなかった。ちょっとかなしい。おまけに、このバス停に停まるバスももうない。つまりは、目の前の「碍子工場前」というバス停自体がもう存在していなかった。見たのは、バス停ではなくバス停跡だった。
◆ 「吉井駅前」というバス停は、駅とバス停のあいだにほとんど距離がなかった。あまりに駅に近すぎて、これでは「駅前」というより駅の一部そのものではないか、と思った。
◆ 「◯◯前」という名のバス停と◯◯との距離は、近すぎてもならず遠すぎてもならず、けっこう微妙な感覚に支えられているのだろう。
◆ 「病院前」というバス停は、病院とバス停のあいだにほどよい距離があって、これこそ「◯◯前」と呼ぶにふさわしいバス停だと思った。
◆ 「稲荷前」というバス停はどこにあるのだろう。このバス停で、ひとはバスではなくトトロを待っている。先日見たバス停は「稲荷坂」だった。ネットを使えば、すぐに全国各地の「稲荷前」を探し出すことができるだろうが、そういう無粋なことはしないでおいて、いつかたまたま出会いたい、稲荷前バス停にもトトロにも。