◇ 世界をできるだけ単純な公式に還元しようとする宇宙論や哲学あるいは数学と、キノコにはまだ未知の種類が数千種もあるという、世界の多様性に喜びを見出す博物学と、学問にも両極があることを知ったのは、学生時代であった。
下宿の隣の部屋には理論物理学者がいて、個物への興味を持つということそれ自体が理解できないらしかった。彼は少数の本を手元に置いているだけであった。たいていの本は買ってくると、表紙を「重い」と言って捨て、飛石のように数式だけを読んで、二百ページくらいの本を一時間もするとごみ箱に直行させるのであった。〔中略〕
二人の共通の知人に生物学者がいて、オサムシの触角にしか生えないカビを研究していた。「へえー、どうしてまたそんなものを?」とからかうと、これほど栄養要求性の厳密な生物は稀だから面白いのだと言い、これが重要な学問分野だという証拠に、もっぱらそのカビについて書かれた部厚い洋書を見せたが、それは一種の正当化で、彼が世界の多様性そのものに魅せられていることは疑いないところだった。彼の部屋には大部の図鑑類が揃っているのはもちろん、たとえば魚類図鑑には印と感想が書きこまれていた。彼は図鑑の魚を機会あるごとに食べて、味を評価していたのだった、彼が、視覚だけでなく、味覚までを動員して、世界に直接肌で接しようとしていたことは間違いない。
私は二人の友人のうち、前者を「火星人」、後者を「金星人」と呼び、自分をひそかに「地球人」と(厚顔にも)規定していた。当時のSFでは、火星は幾何学的な運河と抽象的な建築のひっそりと並ぶ他は風の吹きすさぶ砂漠であり、金星はジャングルの鬱蒼と茂る世界だったからである。
中井久夫 『精神科医がものを書くとき』(ちくま学芸文庫,p.10-11)
◆ 両極端な「火星人」と「金星人」。その属性をさまざまな用語で言い表すことができるだろうが、たとえば、抽象的と具体的。
◇ あなたの話は具体的なのでわかりにくい。もっと抽象的に話してください。
iky.no-ip.org/dictionary/2007/07/post_11.html
◆ と言った数学者(吉田耕作)もいるらしい。「火星人」的発言の最たるものだろう。逆に、オタクと呼ばれるひとたちはみな、その対象がなんであれ、「金星人」的素質があるだろう。かれらはみな、一般的なもの、共通したもの、平均的なもの、法則的なもの、論理的なもの、といったものよりも、例外的なもの、独自なもの、突出したもの、差異のあるもの、非論理的なもの、といったものの方を好むのである。たとえば、虫を好きな理由を聞かれた養老孟司は、
◇ 論理が立たないことがたくさんある所が好き。要は、わけが分からないから好きなのです。
otona.yomiuri.co.jp/mystyle/mushi/081222.htm
◆ と答えている。「火星人」と「金星人」の中間でほどよいバランスを保っているのが、「地球人」ということになるが、では、「土星人」はどこに位置するだろうか? たぶん、「火星人」からは遠い。「金星人」からも遠い。さらには、「地球人」からも遠く離れて、宇宙にひとり。さみしくはないか?