MEMORANDUM
2007年08月


◆ 珍しいことに、ブログで SaturnianCafe を紹介してくださった方がいる。《ランボー・ブログ》 の門司邦雄さん。

◇ 2007年6月19日の 「アナログからデジタルへ」 の記事に書いた SaturnianCafe (サチュルニアン・カフェ)のご紹介です。
rimbaudblog.blogspot.com/2007/07/blog-post_31.html

◆ で、2007年6月19日の記事というのを見てみると、

◇ 私が興味を持って見ているサイトに、運送屋さんのフォトダイアリーサイトがあります。日本各地が彼なりの視点で撮影されていて、興味を引きます。
rimbaudblog.blogspot.com/2007/06/blog-post_19.html

◆ と、たったこれだけだが、妙にウレシイ。続けて、2007年6月19日の記事の末尾。

◇ 今の写真は巨大設備を使ったスケールメリット的なコマーシャル画像と、きわめて撮影しやすい日常の写真に分化が進行しているように見えます。滅多に無いような決定的瞬間は、確かにあるでしょう。でも、カメラの発達により、小さな決定的瞬間でも、誰にでも手の届くものとなりました。現在、私は、ひたすら匿名の撮影を求めています。
Ibid.

◆ 門司さんはフリーカメラマンであるらしい。だから、写真にたいする洞察が素人のワタシなどよりはるかに深いのは当然といえば当然だろう。「現在、私は、ひたすら匿名の撮影を求めています」 という一文に込められた思想がどのようなものかはにわかにはわからないし、そもそも匿名であるのが撮る人なのか撮られる人なのかもワタシには判然としない。あるいは、写真家という写真にかんしては特権的な存在とはまったくかかわりのないところで流通する無数の写真の総体のことだろうか? それでも、日記代わりに写真を撮っているだけのワタシにも、「小さな決定的瞬間」 と呼ぶべきものははたしかにあって(それはたいてい、不意に猫が目の前を横切ったといった類の他愛もないものだが)、そんなときには、平凡な日常もまんざら悪いものではない、と少しだけ気持ちが軽くなったりする。「小さな決定的瞬間」 に立ち会うにさいして、カメラが必ずしも必要であるとも思えないが、ワタシの経験からは、カメラを携えていることで、「小さな決定的瞬間」 にめぐりあう機会が著しく増しているような気がする。まったく不思議なものだ。

◆ ところで、門司邦雄(もんじくにお)さんがブログで使用されているハンドルは、Parolemerde2001。これはなんだろうか、とすこし考えた。parole(パロール) と merde(メルド)。フランス語で、言葉と糞。よくわからないが、あるいは、「もんじくにお」 の翻訳でもあるか? とはいえ、parole が 「もんじ(文字)」 であるというのは、やや苦しいかもしれない。parole は言葉であっても、むしろ話し言葉を指す語であり、「もんじ(文字)」 の訳語には、書き言葉を指す écriture(エクリチュール)がよりふさわしい気がする。「くにお」 が 「くそ(糞)」 というのはさらに苦しいかもしれない。門司さんのブログはフランスの詩人ランボーをテーマにしたものだから、あるいは、ランボーが詩のなかで、parole-merde という造語を使っているのかもしれない。

◆ 東京に住んではいても、ヒルズ族であるわけでもないので、六本木にはほとんど縁がない。ときたま仕事で行くくらいだ。よく知られているように、六本木界隈には外国人が多い。

◆ 昨日、六本木で仕事があった。六本木通りにとめたトラックのそばを、若い金髪の白人女性が歩いてくる。彼女がワタシの前を通り過ぎるまさにそのとき、彼女は手にしたケイタイに向かって、こう叫んたのだった。

◇ Roppongi fuckin' dōri!

◆ ロッポンギ・ファッキン・ドーリ。たぶん ケイタイの向こうで 「いまどこにいるんだい?」 とでも聞かれたのだろう。で、彼女は答えたのだろう、「六本木ファッキン通りにいるわ」。

  道行

◆ 暑い。「暑い、暑い」 と言っても、涼しくなるわけはないのだから、なるべく言わないようにしようとは思うのだが、暑い。

◆ セミもアチイ、アチイと鳴(泣)いている。昨日、セミのなく木立で休んでいて、たわむれにセミを探してみると、何匹もいる。その何匹もいるセミのうち、2匹のセミがゆくっりと、相前後して幹を上っていくのが見え、道行(みちゆき)という言葉を思い出した。一瞬、あたりが涼しくなったような気もしたが、すぐにまた汗がふきだした。