MEMORANDUM

  特急 「はと」

◇ テレビの 「ウルトラマン」 シリーズの演出や映画 「帝都物語」 などで知られた映画監督の実相寺昭雄(じっそうじ・あきお)さんが29日深夜、死去した。69歳だった。
www.asahi.com/culture/movie/TKY200611290434.html

◆ 29日というのは、2006年11月のこと。さいきん 『昭和電車少年』 という本を、その著者の訃報もつゆ知らずに読んだ。

◇ わたしにとって電気機関車というフォルムの極北は、そんなEF57であった。戦後、『はと』 などとふやけた名前で特急が復活したが、昭和二十五年に再開された特急 『つばめ』 を牽引して、いたく城西のファンを魅了したのは、EF57の持つ造形の見事さだろうと思う。
実相寺昭雄 『昭和電車少年』 (JTB,p71)

◆ いかにも根っからの鉄道ファンらしい文章だが、それはさておき、どうして 「はと」 はふやけているのだろう? すくなくとも戦後まもなくのころは、平和のシンボルとして、いまよりもずいぶんイメージよかったのではないかと思いもするが、そうでもなかったのだろうか? とまあ、そんなことが気になった。

◆ 駅のホームでたむろするハトたちを見るにつけ、たしかに、お前ら特急って感じじゃないよな、とつびやきたくもなる。だれが特急 「ドバト」 に乗りたいと思うだろう? 汽車ポッポと鳩ポッポのポッポつながりくらいでは、遊園地のSL列車の愛称ぐらいがお似合いだろうか?

◆ そんなことをあれこれ考えていたものだから、先日本屋で、内田百閒の 『第一阿房列車』 (新潮文庫)の表紙を見たときには驚いた。特急 「はと」 の展望車のデッキにすっくと立った内田百閒の表情がなんともいえずすばらしい。撮影は林忠彦。調べてみると、この写真は、昭和27年(1952)10月15日、鉄道80周年の記念行事の一環として内田百閒が東京駅の一日駅長を務めたときのもの。

◇  第三列車 「はと」 は、私の一番好きな汽車である。不思議な御縁で名誉駅長を拝命し、そのみずみずしい発車を私が相図する事になった。汽車好きの私としては、誠に本懐の至りであるが、そうして初めに、一寸(ちょっと)微かに動き、見る見る速くなって、あのいきな編成の最後の展望車が、歩廊の縁をすっ、すっと辷(すべ)様に遠のいて行くのを、歩廊の端に靴の爪先を揃えて、便便と見送っていられるものだろうか。
 名誉駅長であろうと、八十周年であろうと、そんな、みじめな思いをする事を私は好まない。
 発車の瞬間に、展望車のデッキに乗り込んで、行ってしまおう、と決心した。

内田百閒 「時は改変す」 『立腹帖 内田百閒集成2』 (ちくま文庫,p.152)

◆ そうして、ほんとうに、駅長としての任務を放棄して、「はと」 の展望車に乗って熱海まで行ってしまった・・・。こんな 「はと」 好きの痛快な人物がいるとは、その日ばかりは、さぞかし駅のホームのハトも鼻が高かったにちがいない。

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