MEMORANDUM

  運動会

◆ 運動会の季節でもないのに、たまたま運動会の写真が目についてしまったという理由で、運動会のことを少し。そういえば、スポーツ新聞も今時分はたいしたスポーツ関連の話題がないので、どうでもいいようなことが一面に載っていたりする。写真は幼稚園の運動会。音楽につられてちょっと覗いてみたことがある。幼稚園児の動きを見ていると、アリにそっくりだ。あっちをうろうろ、こっちをうろうろ。実にほほえましい。でも、ほほえましいのは、おとなだけかもしれなくて、幼稚園児といえども、大いに緊張し(そのようにはまったく見えなかったが)、スタート地点で武者震いをしていたかもしれない。あるいは、かけっこでビリになった子などは、木陰で悔し泣きしていたかもしれない。それもまたおとなにはほほえましく見えるのだが。

◇ 子供のころ、私は運動会がきらいでした。理由は簡単です、駆けっこ(徒競走)があるから。私は運動オンチで、特に駆けっこはいつもビリでした。あのピストルの、パーンという音も恐かった。びくっとして、それだけでスタートが遅れました。運動会なんて、雨が降ってなくなればいい、といつも思っていました。そんな私に両親はいつもこう言いました。「ビリでも、一生懸命走ればいいんだ」 そんなこと子供の私にもわかっていました。でも 「結果は二の次、努力することに意義がある」 というのは大人の理屈で、一生懸命走ってもビリだったときのみじめな気持ちは、忘れられません。
www.wombat.zaq.ne.jp/minaduki/wmp/me/essayback/001021.html

◇ 私は小さい頃から運動会が大っきらいだった。埃っぽい校庭もきらい。ピストルの合図もきらい。雑音だらけのスピーカーから流れる音もきらい。『クシコスの郵便馬車』 も。
www.doblog.com/weblog/myblog/1805/532882

◆ かけっこほど残酷な競技はない。結果がすべてを物語る。言い訳はきかない。自分のぎこちない体の動きが白日のもとにさらされる。童謡 「サッちゃん」 の作詞で知られる(芥川賞作家)阪田寛夫に 「びりのきもち」 という詩がある。

びりのきもちが わかるかな
みんなのせなかや 足のうら
じぶんの鼻が みえだすと
びりのつらさが ビリビリビリ
だからきらいだ うんどうかい
まけるのいやだよ くやしいよ
おもたい足を 追いぬいて
びりのきもちが ビリビリビリ

◇ 宝塚歌劇団の元トップスター大浦みずきさんは運動神経に恵まれ、駆けっこなら小中学校を通じて1位の記憶しかない。でも不思議なことに、家族はそろって運動音痴だった。▼特に父は瞬発の才に乏しく、運動らしい運動をする姿を見たことがない。この春、79歳で亡くなった阪田寛夫さんである。いとこで幼時から親しかった作曲家の大中恩 [めぐみ] さん(81)も 「彼の運動神経には同情した。走るのも投げるのも滑るのも苦手でした」 と話す。
朝日新聞 「天声人語」 (2005年10月2日付)

◆ 以下は蓮實重彦が東大総長時代に 『運動会会報』 (東大ではスポーツ系クラブの団体を 「体育会」 ではなく 「運動会」 と呼ぶ)に寄せた 「愛と矛盾」 という文章。

◇ スポーツを愛することは、あらゆる人に許された平等な権利であります。気に入った種目があるなら率先してやってみるのもいいだろうし、他人の競技ぶりを眺めてみるのもよい。そうすることの自由を禁じるものは、原則として何ひとつ存在しません。その意味で、スポーツは優れて 「民主的」 な体験だとひとまずいうことができます。
蓮實重彦 『齟齬の誘惑』 (東京大学出版会,p.199)

◆ もちろん、このあとには、「だが」 と始まる文章が続いて、スポーツは 「民主的」 であると同時に 「非民主的」 でもあると指摘されることになる。

◇ あらゆる人がスポーツに愛されているとはかぎらないのであります。実際、いったん競技が始まってしまうと、誰がスポーツに愛され、誰がスポーツに愛されていないかは一目瞭然なのです。いかにも残酷なことですが、スポーツを愛することとスポーツに愛されることとは、僥倖として、選ばれた個体のうちで、ごくまれにかさなりあうものにすぎません。 / スポーツに愛されていない人が、スポーツが好きだという理由で必死に演じてみせる身振りは、ほとんどの場合、目を蔽わんばかりに醜い。

◆ 目を蔽わんばかりに醜い。救いはどこにもない。

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