MEMORANDUM

  思い出喰い

◆ 『下流喰い』(須田慎一郎著、ちくま新書) という本を買った。サブタイトルが示すとおり 「消費者金融の実態」 をルポしたものだが、内容はともかく、タイトルに惹かれた。だれがつけたのかは知らないけれども(出版社サイドのような気もする)、その思惑とはおそらくは関係がないところで、このタイトルはワタシを魅了した。

◆ 加納光於に 「稲妻捕り」 と題されたリトグラフの連作がある。もちろん 「稲妻捕り」 は「下流喰い」 のようにたやすく買うというわけにはいかないので、展覧会の図録でも眺めて満足するほかないけれども、このタイトルも長い間ワタシを魅了し続けた。

◆ で、ハナシはまったく変わることになるのだが、これらのタイトルをアタマのなかで反響させつつ、ワタシは自分が 「思い出喰い」 ではないかということに、もしくはやや上品に 「思い出捕り」 ではないかということに、ふと思い当たった。獏が他人の夢を喰うように、ワタシは他人の記憶や思い出を食べて自らの栄養としているのではないか?

◆ パソコンでネットサーフィンをする。さまざまなキーワードで検索をし、その検索結果にしたがっていくつかのサイトを訪れる。ブログの流行もあって、個人のサイトであることも多い。そこには intimate な空間が無造作に広がっていて、カギのかかっていない他人の部屋を覗き見るような後ろめたさがないわけでもない。しかし、そんなことさえ気にしなければ、そこで語られる思い出は、けっしてワタシのものではないけれども、もしかするとワタシのものでもよかったはずのものではないか? そんな気がし始めると、もういけない。アカの他人の思い出を、ワタシは自らのものにしてしまおうと不埒な考えがアタマをよぎり、すかさずコピー&ペーストをして、他人の貴重な思い出の数々を無断で掠め取ってしまう。いったい思い出というものに所有権は認められているのだろうか? できることなら、ワタシも、他人の思い出を喰ったり捕ったりしているぐらいには、自らの思い出を他人に提供したい気持はあるのだが、いかんせん、ワタシには、そのような思い出がいちじるしく欠けているように思われて、すこし悲しい。

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