MEMORANDUM

  炭鉱街の映画館

♪ あの時の歌は聴こえない
  人の姿も変わったよ
  時は流れた

  ガロ「学生街の喫茶店」(作詞:山上路夫)

◆ 写真は南美唄。札幌から行くと岩見沢の先に美唄市がある。

◇ 焼き鳥がおいしいこのまちは、1913(大正2)年に飯田美唄炭鉱(のちの三菱美唄炭鉱)ができたのを最初に、三菱・三井美唄炭鉱といった大炭鉱から中小の炭鉱までがひしめきあっていた。戦後、日本経済復興の主役として巨額の資金が投入され、石炭産業は拡大が続く。まちは活気にあふれた。
www.hokkaido-jin.jp/issue/200303/hhpg2.html

◆ 焼き鳥で有名だとは知らなかったが、東美唄には三菱の、南美唄には三井の財閥系炭鉱があった。三井美唄の操業開始は1928(昭和3)年、閉山が1963(昭和38)年。三井美唄の歴史はわずか35年。三井美唄の歴史は、そのまま街としても南美唄の歴史でもあって、人生よりも短い街の一生とはなんだろう? いや、言い過ぎた。まだ街は死んでしまったわけではない。ただ、

◇ 石炭産業が隆盛だった時代、栄えていた南美唄地区も、現在は人口が激減し、市内でも高齢化率の高い地域となりました。
www.net-bibai.co.jp/bfs/ibe2004.html

◆ ともかく南美唄の街が、人生でいうなら働き盛りのころ、1955(昭和30)年に、三井美唄互楽館という映画館が誕生した。

◇ 炭鉱の街が栄えたころ、いちばんの娯楽は映画でした。多くの炭鉱町に映画館が建てられましたが、この互楽館はそのなかで最大のものです。立ち見席も含めて、1,477名を収容できました。椅子席の下にパイプを通し、蒸気で暖房するなど、最新の設備も取り入れられています。
www.hokkaido-jin.jp/zukan/story/03/15.html

◆ 映画も全盛の時代であったから、思い出はつきないだろう。

◇  互楽館(ゴラッカンと言ってました)には、思い出が沢山ありますね。最も幼い記憶は、母に連れられて化け猫の映画(入江タカ子主演?)を見たこと。目に恐怖が焼け付き、眠れない日がかなり長く続きました。浪曲講演に連れて行かれたこともありました。まあ幼児にとっては退屈の極地でしたね。
〔中略〕
 それにしても互楽館は堂々たる劇場でしたよ。収容人数2千人ということですから、今の札幌にもこれほどの会館は数えるほどしかありません。あれで、座席が木造でなかったら最高でしたが。

mimizun.com:81/log/machi/hokkaidou/1006990777.html

◆ あるいは、両親が南美唄で唯一の純喫茶を経営していたひとの思い出。

◇ 母には「互楽館に公演に来た杉村春子さんの楽屋にコーヒーを届けたことがある」と、よく聞かされたことがあります。
www5b.biglobe.ne.jp/~OOMIYA/vpack20bbs2/

◆ 1963年の三井美唄の閉山とともに互楽館も閉館する。それからすでに40年あまりが経つ。

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