◆ ひき続き、「子供の頃の勘違い(笑いネタ)」を読んでいる。やはりコトバのカン違いが主流で、巨人の星の「重いコンダラ」とか「ウサギ美味しい」故郷とか、どこかで耳にしたことがあるのも多い。そんななかにも、高校生になるまで素ウドンを酢ウドンだと思っていたという方の、 ◇ あとは、「天高く 馬肥ゆる秋」のことを「馬越ゆる」だと思っていて、この言葉を聞くたびに馬が空を飛んでいるような絵図を想像してました(笑)。 ◆ という、天を翔る馬のイメージは、あんなに高い秋の空にぴったりで、こんなステキなカン違いならワザとしてみたい気にもなる。それから、 ◇ 和歌山城の近くの動物園で初めて鳩を見たので、鳩は動物園しかいない鳥だと思っていたので、節分の後に保育所に鳩が飛んできたのを見た時に、「あの鳩は和歌山城からわざわざ豆を食べに来たんだ。すごいなあ」と思ってしまいました。 ◆ なんてのも、オモシロイ。それでは、こんなのはどうだろう? ◇ 道産子の私は、街と街の間(たとえば札幌と小樽の間など)には、家とかなんにも無くなるところがあって、しばらく走ると、またじわじわと街になるのが当たり前と信じておりました。 ◆ これはカン違いだろうか? ワタシはいま東京に住んでいるけれど、この方と同じことを東京に来たときに感じ、この方と同じように 「今でも変な感じがし」 ている。ワタシの生まれた京都 (山科) は盆地で、山が街を閉ざしていたし、そのあとに住んだのは札幌で、道産子さんと同じ感覚で街というものを理解していたように思う。それで、東京に来て、平野で人口が多いから仕様がないんだけれど、切れ目のない街をいうものを実際に経験して、なんともいえない疲労感を覚えてしまった。行政上の架空の線でしか街と街とを切り分けることができないのなら、どうして別の街である必要があるんだろう? 街は閉ざされていたほうが落ち着く。これはやはりカン違いだろうか? |
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これはオーソドックスかもしれませんが
「ハンドルを あやまって 大惨事を・・」
「 謝って 」
スイマセーンって 言いながら
って思ってました。