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◆ 放哉の代打で、大谷くんが出てきて、「野球をしても一人」と言った。 ◆ 大谷くんというのは、日本ハムに入団した新人選手で、ピッチャーとバッターの両立を目指したいという珍しいやつだ。毎試合先発して四番を打つというのはさすがに無理だろうが、先発しない日はDHで打つくらいのことは可能な気もするがどうなんだろう。もちろん、そう甘いもんじゃないだろうけど、少なくとも、サッカーのゴールキーパーが得点王を目指すよりは簡単だろう。 ◆ 「野球をしても一人」にハナシを戻すと、野球というのは9人対9人でやるスポーツということになっているが、極限までつきつめれば、ピッチャーとバッターが1対1で勝負をするスポーツということになるだろう。で、大谷くんのピッチャーとバッターの両立ということを考えたときに、実際のところ、ピッチャーの大谷くんとバッターの大谷くんとではどちらがスゴイのだろうかという疑問がわいて、これは実際に対戦すれば、すぐに結論が出ることだ。大谷くんが投げた球を大谷くんがホームランすれば、バッターの大谷くんのほうがスゴイわけだし、空振りすればピッチャーの大谷くんのほうがスゴイということになる。ピッチャーの大谷くんが投げるとすぐにバッターボックスまで走っていってすかさずその球を打つというのも不可能ではないだろうが、これはバッターの大谷くんのほうが、時速160キロで走らねばならず息が切れて非常に不利だ。超山なりのボールを投げればそれほど急がずとも十分間に合うだろうが、これでは真剣勝負にならない。より現実的なのは、ありとあらゆるデータを入力した超高性能ピッチングマシーンの大谷くんが投げて生身の大谷くんが打つことだろう。これは、生身の大谷くんが投げて超高性能バッティングマシーンの大谷くんが打つよりずいぶん簡単だろうと思う。オスプレイを買うくらいの開発費をかければある程度のものができるのではないか(よく知らないけど)。ぜひ見てみたいものである。そして、大谷くんのコメントを聞いてみたいものである。超高性能ピッチングマシーンの大谷くん相手に三振を喫したら、大谷くんはバッターをあきらめるだろうか? ホームランを打ったら、ピッチャーをあきらめるだろうか? ともあれ、成功を祈る。 |
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◆ 咳をしても一人。べつに風邪をひいているわけではない。ふと尾崎放哉の有名な自由律俳句を思い出しただけのこと。なぜ思い出したのかというと、面倒だからはしょって書くが、相撲のことを考えていたら、放哉が出てきたというわけ。相撲といっても国技館でやってるような相撲ではなく、一人相撲。一人相撲のことを考えていたら、放哉が出てきて、「相撲をしても一人」と言った。それを受けてワタシが「恋をしても一人」と言うと、ニヤリと笑って放哉が消えた。 ◆ 咳はひとりでもできるが、いや、むしろひとりでするものだが、ひとりで相撲を取ることはできない。一人相撲はそもそも相撲ではない。「双子の一人」はありうるが、「一人の双子」はそもそも双子ではない。 ◇ ひとりずもう【一人相撲/独り相撲】 ◆ 1の意味は、いまどきのコトバで言えば「エア相撲」か。見えないだけで、相手はいるのだ。 ◆ 同様に、ひとりで喧嘩をすることはできないし、ひとりで恋をすることはできない。どちらも相手が必要である。いや、片思いという意味でなら可能だが、相手のいない恋はできない。 ◆ ひとりで手紙を書くことはできるが、ひとりで文通することはできない。ひとりでオナニーはできるが、ひとりでセックスはできない。ふたりでするオナニーはセックスではなく、二人オナニーである。 ◆ 世の中にはいろんなことがあるが、「ひとりでしかできないこと」と「ふたりでしかできないこと」のどちらかしかない。3以上はないと思う。 ◆ 死ぬのはひとりだ。「心中」はひとりではできないが、コトバに惑わされてはいけない。ふたりでひとつの死を死ぬことはできない。そこにはふたつの死が残されるだけだ。 ◆ 最近、喫茶店などで、カップルが会話もせずにそれぞれスマートフォンをいじったりゲームをしたりしているのをよく見かける。これを一言で表す便利なコトバをワタシはまだ知らない。 ◆ ストーカーというコトバもふと思い出したので、よくはわからないが、きっとこのあたりのハナシに関連があるのだろう。 ◆ 夜も更けてきた。 |
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◇ 「兄弟のことは難しいですな。結局私はなんのお役にも立てませんでしたよ」 ◆ という文章を読んで、毎回「結局私はなんのお役にも立てませんでしたよ」という主人公のセリフで終わるシリーズ物のテレビドラマはどうだろう、と思った。主人公はやはり熱血漢の弁護士だろうか。いや、ニヒルなほうがいいか。あるいは、マヌケな探偵のがいいか。とにかく、依頼者にくるりと背を向け去ってゆく。そこでエンディングテーマが流れだす。きっと名セリフになるんじゃないかな。などと、テレビもないのにつまらぬことを。 ◆ ちなみに、引用したなかにし礼の自伝的小説は、そこで終わらない。まだまだ続く。が、ワタシは続きを読まない。空想を続けたほうがおもしろそうだから。 |
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◆ 「日刊ゲンダイ」(おやじしか読まない夕刊タブロイド紙)に、韓国五輪代表フィジカルコーチという肩書きを持つ人がしばらくエッセーを書いている。そのなかに、 ◇ 「選手から《セイゴーさん》と呼ばれていたのですが、いつからか《アイゴーさん》に変わりました。アイゴーの意味が分からなかったので通訳に聞いてみたら、『嘆くときに感嘆詞として使う』と教えてくれました。相当に練習がキツかったようですね。意味が分かった瞬間、つい笑ってしまいました」 ◆ 「日刊ゲンダイ」と言えば、五木寛之が1975年の創刊時から「流されゆく日々」というコラムを書き続けていて、もう9000回を越えている。以下の文章は「日刊ゲンダイ」とは関係がないが、「アイゴー」とは関係がある。 ◇ 平壌の競馬場は、それほど大きなものではなかった。それだけに、観客の数も少なく、空気はきれいで平和ないい遊び場だった。向う正面のアカシアの花の下を、原色の騎手の帽子がチラチラ見え隠れに走る風情は、抒情的な風景でさえあった。 ◆ この「アイゴー」という感嘆詞を枕に、もう少しハナシをふくらませてみようと思って、《Wikipedia》を見てみたら、 ◇ 〔Wikipedia:アイゴー〕 アイゴー (아이고) は朝鮮語の感嘆詞。元々は朝鮮語固有の語であるため、本来漢字表記は存在しない。古い書籍などでは漢字で「哀号」と書かれているものもあるが、日本で作られた当て字である。哀号を朝鮮語読みにすると애호(エホ)になる。 ◆ なんだ、「哀号」というのは当て字だったのか。これでふくらむはずのハナシがなくなってしまった。アイゴー! |
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◇ ウミネコが鳴いた。もちろんニャーではない。ワンと鳴いたのだ。 ◆ さきほどトイレにこもっていたときに、なぜだか思いついた文章。ウミネコという名の犬がどこかにいないともかぎるまい。半年ばかしココをほったらかしにしているまに、年も明けた。さしたるあてもなにもなく、なんとなくまたなにかを書き始めるにあたっては、これくらいのだらけた文章がちょうどいいのではないかと思った次第。今年もよろしくお願いします、とだれにあてるわけでもなくヒトリゴト。 |
![]() ![]() ![]() ◆ キティちゃん。KITTY ちゃんのような KATTY ちゃん。キティちゃんには似ていない KITTY(2匹いるので、KITTIES とすべきか)。 ◆ 『ジーニアス英和辞典』(大修館書店)で「kitty」を引くと、 ◇ kitty n. /kíti/ 【名】【C】 ◆ とある。「呼びかけも可」という注釈が、そのまま「HELLO KITTY」の由来の説明であるようにも思えておもしろい。
◆ さらに、「GOODBYE KITTY」というキャラクターがあったとして、それがどのようなものになるかについても、容易に想像がつくだろう。これはちょっと怖い。 |