MEMORANDUM

  舗石の下には、砂浜が。

◆ 平成16年1月27日(火)19時00分、多治見市役所3階会議室にて開かれた「第2回多治見市緑化樹木選定基準検討委員会」の議事録が公開されている。ある委員の発言。

◇ もう学生運動など起きないだろうから、アスファルトやコンクリート舗装などやめて敷石にしたらどうですかね。
www.city.tajimi.gifu.jp/section_news/koen_midori/topix/ryokajyumoku/top/2kai/gijiroku.htm

◆ 若い世代にとって、この発言の趣旨を理解するには、多少の知識が要る。

◇ 1970年代に、東京中の街路樹がバタバタと枯れてしまったことがある。 / 時は折しも「光化学スモッグ」が話題になり始めていた頃でもあり、「原因は排気ガスか?!」と騒がれた。しかし原因は違った。 / 当時は学生運動真っ盛りの頃で、銀座、新宿、新橋、お茶の水といった駅周辺では、連日、デモ隊と機動隊の市街戦が繰り広げられていた。機動隊のガス銃、放水車、「国家権力」に対して、デモ隊の武器は「国家権力に対する暴力は、権力を持たない者の正当防衛である」という都合のいい解釈と、ゲバ棒、こけ脅かしだけの火炎ビン、そして主力は投石であった。 / 当時東京の歩道は、25センチ角、厚さ3~4㎝の敷石が敷き詰められていた。 // デモ隊の投石用の石はこの敷石であった。デモ隊と機動隊が交差点でにらみ合うと、デモ隊に同行していた救隊がバールで敷石を剥がし始め、真ん中をコツンと叩くと全く程良い大きさの石ができる。投石用の石は現地調達だったのだ。 / 「これではたまらん!」と権力は敷石を全部剥がしてしまい、(剥がした敷石は東京湾の埋め立てに使った)アスファルトに変えてしまった。(お金のない自治体は交差点を中心に10メートルだけ、アスファルトにした) / 新宿を始めとするターミナル駅構内も線路のバラストが撤去され、アスファルト化されるという徹底ぶりだ。
www.melma.com/mag/35/m00082735/a00000007.html

◆ 作家の北方謙三もこんな発言をしている。

◇ 今だったら絵空事だけれども、あのときは明確にリアリティーを持っていた。僕はいまだに若いやつらに、「あんたら全共闘やって、日本のどこを変えたんだ」と言われて、「歩道を変えたんだよ」と。昔、歩道は四角い踏み石だったんですが、それを引っぱがしてババンと割って機動隊に投げた。一番引っぱがしたのは、お茶の水の明治大学辺り。この辺が日本で一番最初に歩道が全部アスファルトに変わったはずです。あれは俺たちが変えた。それで今の若いやつらに「お前、公園の砂利一つ変えたことがあるか」って(笑)。
www.yurindo.co.jp/yurin/back/406_1.html

◆ なぜ最後に笑っているのかはよくわからいけれど、ともかく当時はこんな調子だったらしい。より正確に時代の雰囲気をつかむには、四方田犬彦の『ハイスクール1968』(新潮社,2004)がオススメ。と書きつつ、ワタシはまだ読んでいないのだが、その一部(?)が WEB 上で(なぜだか)読める。その箇所の書き出しはこうである。

◇ 1969年の始まりを告げたのは、奥崎謙三による天皇パチンコ玉狙撃事件だった。かつて日本軍兵士としてニューギニア戦線へ赴き、九死に一生の生還を果たしたこの四十八歳のバッテリー商は、裕仁が戦争責任を回避し、戦友たちの死が蔑如(ないがしろ)にされていることに強い怒りを感じていた。彼は新年の一般参賀のおりに、みずから作ったゴムパチンコで三発の玉を天皇にむかって撃ち、その場で自首した。わたしは翌日の新聞でそれを知って、すごいことをやる男がいるものだと驚嘆した。
www.shinchosha.co.jp/books/html/4-10-367104-1.html

◆ おもしろいので、もう少し。

◇ 1969年の一学期は、このようにして慌ただしく過ぎようとしていた。東大では一応授業が再開された。大学生は全国でついに百六十万人近くにまでになった。カルメン・マキが歌う「時には母のない子のように」の人気が一段落すると、今度は新谷のり子の「フランシーヌの場合」がラジオからひっきりなしに聴こえてきた。五月革命ののちに絶望して焼身自殺をしたパリの女子大生を歌ったというこの曲は、フランス語のナレーションを含みながらも、まったくの日本製のポップスだった。

◆ 日本語で「五月革命」とやや大げさに呼ばれているのが、1968年5月に始まるフランスの学生運動で、敷石剥がしはこちらが本家である。その影響は今日のマラソン界にも及んでいて、これはパリのマラソンコースのハナシ。

◇ パリのアスファルトの下は、御影石の石畳。60年代学生運動が盛んのとき、学生は石畳を掘り起こして武器にした。そこでパリ市が石畳の上にアスファルトを流した。 だから、このコースはアスファルトの上を走るが硬く脚にくる。
agenceshot.free.fr/athletics/pariyosou3.html

◆ 再び四方田犬彦に戻って、

◇ 一年前にパリで起きた五月革命について当時、高校生のわたしは、ほとんど具体的なことを知ることがなかった。ただ偶然にその場にいあわせた五木寛之が直後に発表した『デラシネの旗』という短編小説と、竹内書店から刊行された『壁は語る』という、パリの壁の落書を集めた書物、それにこの「フランシーヌの場合」だけがわずかな手掛かりだった。

◆ この『壁は語る』に収録された落書きには有名になったものも多い。
(http://d.hatena.ne.jp/tzetze/20040127 でその抜粋が読める)

◇ 「禁止ヲ禁止スル(defense de defendre)」という六十八年の五月革命の有名になった落書きが示すように、「想像力が権力をとる」反乱はここでは<公共のシニファン>を乗っ取り逸脱させることから開始する。
www.nulptyx.com/pub_paris.html

◆ などなど。なかでも一番有名なのが、

◇ 舗石をはぐと、その下は砂浜だ Sous les paves la plague
d.hatena.ne.jp/tzetze/20040127

◆ いま東京のアスファルトを剥がしてみても、その下に、おそらく砂浜はないだろう。

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