MEMORANDUM
2010年02月


◆ 川崎競馬場でパンフレットの表紙に「そうだ、川崎競馬へ 行こう!」とあるのを見て、そういえば、この日、川崎競馬場に来たのも、たまたま休みで、そとは晴れているようだし家んなかにいてもつまらないから、なにかいいことないかな、とぼんやり考えていたときに、たまたま思いついたのが、今日は川崎記念の日じゃなかったかな、ということで、スポーツ新聞で確かめて、「そうだ、川崎競馬へ 行こう!」と思って出かけることにしたのだったから、ちょっとおかしかった。

◆ もちろん、この「そうだ、川崎競馬へ 行こう!」というキャッチコピーは、すぐに「そうだ、京都へ 行こう!」というJR東海のそれを思い出させる。パクリだとみなすひともいるだろう。とにかく、不意になにかを思いついたときのちょっとした喜びを、この「そうだ」が巧みに表現していて、見事なコピーだと思う。ところで、JR東海のあのキャンペーンはいつから始まったのだっけ? 《Wikipedia》によれば、

そうだ 京都、行こう。(そうだ きょうと、いこう)とは、東海旅客鉄道(JR東海)が1993年から展開している京都観光キャンペーンの主たるキャッチコピーである。制作はエグゼクティブ・クリエイティブディレクターの佐々木宏による。
ja.wikipedia.org/wiki/そうだ 京都、行こう。

◆ 1993年か、ずいぶんと前からだったんだな。それから、こんなことも書いてある。

◇ 正しいキャッチコピーは『そうだ 京都、行こう。』だが、『そうだ 京都へ行こう。』『そうだ 京都に行こう。』と間違える人もいる。

◆ ああ、ワタシだ。これはご丁寧に。有益な情報をありがとう。ついでに、

◇ テレビCMでは『サウンド・オブ・ミュージック』の曲『私のお気に入り(My favorite things)』を毎回違う編曲をしてBGMとしている。

◆ ああ、これも気がついてなかった。いろいろと役に立つ。

◆ そうだ、蕎麦屋に行こう。そう思って、街へ出かけたのは、杉浦日向子が、

◇ ずっと以前、東京には、こんなソバ屋が、銭湯の数くらい、どこにでもあったはずだ。変わりソバや大吟醸はなかっただろうけど、ソバ屋で過ごす、こんなぽっかりとした午後が、ありふれた日常のなかに、いつもすぐそこの卑近さで、あったはずだ。
杉浦日向子とソ連編 『もっとソバ屋で憩う』(新潮文庫,p.38)

◆ と書いていたから。とくに蕎麦が好きなわけでもないけど、彼女のいう「こんなソバ屋」にちょっと行ってみたくなったわけ。それから、

◇  ソバをズズッと、あからさまな音をたてて食べるようになったのは、どうやら、ラジオ普及以降のことらしい。
 ソバ関連の落語を放送でかける際、仕方噺(しかたばなし)のSEとして噺家がズズッとやった。それを聴いたひとたちが、達者な擬音を、オツだねえとマネたのではないかという。
 従来我が国ではおおむね濁りを忌み、麺なら、つるつるは良いがずるずるは下品として、唇をすぼめて食べていた。
 ただしソバは、晩秋から春先にかけてズズズッが公認された。俗に、「きくやよい」=「聴くや善い」=「菊弥生」と云って、菊(十一月)から弥生(三月)までがズズッ公認期間とされていた。つまり新ソバの時期で、新ソバの薫りはかそけきものだから、空気を撹拌させ、口腔から鼻腔へと増幅してこそ、存分に堪能できるのだ。高座のソバは新ソバであるわけだが、いつしかそれが通年の慣習として定着したのだろう。

Ibid., p.79

◆ とこんなことも書いてあった(念のため、SEというのは、サウンドエフェクト、つまり音響効果のことで、システムエンジニアのことじゃないよ)。それで、「こんなソバ屋」に行って、苦手だけれども、ズズッとやってみたくなったのだ。あるいは、自分ではうまくできなくても、蕎麦好きたちが奏でる楽しげなズズズッを聞いてみたいと思ったのだ。そう思って街に出たのだけども、悲しいかな、「こんなソバ屋」がどこにあるのかがわからない。駅前あたりをうろちょろして、「こんなソバ屋」風の蕎麦屋なら、あるにはあったけれど、いまひとつ確信がもてずに、さらにうろちょろ。ちょっと寒い。カラダは冷たい蕎麦よりも温かい蕎麦を欲しているようだ。温かい蕎麦なら、なにも「こんなソバ屋」に行かなくても、駅前の立ち食いで十分な気もしてきた。それで、面倒なので、立ち食いにしようかと思ったが、立ち止まってよく考えると、とくに蕎麦が食べたいわけではない。「こんなソバ屋」に行きたかっただけなのだ。そんなこんなで、けっきょく、新しくできたらしいうどん屋を発見して、うどん屋に入った。それで、注文したのがよりによって「明太子うどん」。「明太子蕎麦」なんてのはないだろうな、と思いつつ、いったいなにがしたかったのやら。

◆ とうわけで、「明太子うどん」を食べた。

◇ 博多より極上の明太子を当店オリジナルソースにて作り上げた一品です。850円。

◆ だそうだが、ワタシには量が多すぎた。刻み海苔がのせてあるほかはうどんと明太子ソースだけだから、ちょっと飽きる。半分の量で、半分の値段なら喜んで、といったところ。ところで、この「博多より極上の明太子」という部分、「明太子といえば、博多」というのが通り相場になっているけれど、明太子の「生みの親」であるスケトウダラ(スケソウダラ)自体は北方の魚で、

〔水産総合研究センター 北海道区水産研究所〕 スケトウダラは、北太平洋に分布しており、日本海(韓半島~サハリン)、太平洋(常磐地方~ベーリング海~カナダ)、オホーツク海(北海道~サハリン~カムチャッカ半島)で漁獲されています。日本近海では、北海道の周辺と三陸地方の沿岸が、主な漁場となっています。
hnf.fra.affrc.go.jp/H-jouhou/osakana/panfu98.htm#05

◆ 日本でスケトウダラといえば、近年、漁獲量が激減しているとはいえ、北海道が本場であることには変わりがなくて、博多の辛子明太子屋でも、北海道産にこだわり続ける店は数多い。

〔しまもと〕 辛子明太子の命。それは素材である「たらこの鮮度」です。明太子の原料となる「スケソウダラ」は北の海でしか獲れません。通常出回っている辛子明太子の、実に9割以上がアラスカやロシアで獲れた冷凍卵と言われる輸入された卵(たらこ)を使用している中、しまもとでは抜群の鮮度を誇る「北海道たらこ」にこだわり続けています。
www.hakatamentai.jp/fs/simamoto/c/kodawari

〔ひろしょう〕 現在、ほとんどの明太子は、アメリカやロシア産の卵で作られています。それは、北海道で水揚げされるスケソウ鱈の卵(真子)の数が減ってきているため、相場の変動が激しくとてもあつかいにくい原料だからです。しかしひろしょうでは、あえて北海道産しか使用していません。その理由は、卵本来の持つ風味と粒子感がひろしょうの明太子に最も適しているからです。
www.hirosyo.com/kodawari.html

〔椒房庵〕 椒房庵の辛子明太子の原料は、北海道産のたらこです。その大きな理由は、なんといっても濃厚なうまみにあります。生のまま塩漬けし、魚卵のうまみをしっかり閉じ込めることができるからです。
www.shobo-an.co.jp/kodawari/hokkaido.html

〔いとや〕 「いとやの味の明太子」は北海道のスケソウウダラの真子のみを厳選使用しておりますので、お口の中で、はじける北海の幸の旨さを存分に堪能いただけます。
www.itoya-mentaiko.co.jp/

〔幸村英商店〕 北海道産の素材にこだわった明太子を作り続けて四十余年。今や、その味わいは博多だけにとどまらず全国の皆様に親しまれるようになりました。
www.yukimura-hakata.com/kodawari.html

◆ 続ければキリがないが、こうして引用していると、北海道ファンのワタシとしては、たいへん気持ちがいい。「明太子といえば、博多の名産」ということになっていて、それはそうなのだから仕方がないが、スケトウダラがいなくては明太子も作れないわけで、そのスケトウダラが実は北海道の特産であることを知らないひとに、そのことを知ってもらうためにも、博多の明太子屋がことさら北海道産にこだわってくれているのは、たいへんありがたい。

◆ 北海道のなかでも、岩内はスケトウダラの延縄漁で有名で、

〔朝日新聞〕 さかのぼれば明治30年代。福井県出身の漁師・増田庄吉が岩内に伝えた漁法が、北海道のスケトウダラはえ縄漁の始まりだとされる。同じスケトウダラ漁でも、えさで釣り上げるはえ縄漁は、底引き網や刺し網、定置網を使う漁より魚体の傷みが少なく鮮度がいい。
mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000750912210001

◆ 岩内っ子のたら丸くんもこう言っている。

◇ ぼくはたらこの親スケトウダラです。岩内のたらこは前浜で一本一本釣った魚をすぐ製品にするので日本一の味になるのです。

◆ とはいえ、この岩内の「日本一」のたらこが博多で辛子明太子になっているかどうかは、よくしらない。でも、博多に「辛子たら丸」はいないと思う。もしいたら、たらこ唇がひりひりして、ほんのり赤く腫れ上がって、明太子唇になってるはずだろう。

♪ 今は山中 今は浜
  今は鉄橋渡るぞと
  思う間も無く トンネルの
  闇を通って広野原

  文部省唱歌 「汽車」(作詞:不詳,作曲:大和田愛羅,1912)

◆ 奥多摩に廃線になった鉄道跡があった。橋があった。スタンド・バイ・ミーごっこがしたくなる。鉄橋ではなく、コンクリート橋なのがちょっと残念。汽車が来るはずもないので、走る必要もなくのんびり歩く。その先にトンネルがあった。ちょっと入ってみたが、すぐ引き返す。トンネルで思い出したのが、小学生のころに聴いた、南こうせつとかぐや姫の「ひとりきり」という歌のこのフレーズ。

♪ 汽車は行くよ 煙はいて
  トンネル越えれば 竹中だ

  かぐや姫 「ひとりきり」(作詞・作曲:南こうせつ,1972)

◆ この「竹中」は地名で、南こうせつの生まれ故郷である大分県大分市竹中のことだそうだ。大分から豊肥本線に乗ると、5つめが竹中駅。地図を見ると、たしかに竹中駅の手前にはトンネルがある。というようなことを知ったのはついさっきで、ということは、ついさっきまでは、この竹中の意味がよくわかっていなかった。小学生のワタシは、歌詞にローカルな地名が使われるなんて、考えてもみなかった(しかし、どうして、たとえば「ふるさと」ではいけないのだろう?)ので、「今は山中 今は浜」の山中と同じようなものだと思っていた。トンネルを抜けると、竹の中。竹がたくさんあるところ。つまりは竹林か。暗いトンネルから出たと思ったら、今度は竹の林? そんな風に理解して、ちょっとすっきりとしなかった。いや、ほんとうは、この歌詞をつっこんで考えてみたことなど一度もない。ただ、鉄道に乗ると、トンネルというものがあって、それだけでわくわくして、トンネルを抜け出たときには風景が一変しているだろうという期待だけで十分だった。そのあとは、山中だろうが街中だろうが、竹ん中だろうが藪ん中だろうが、どうでもいい。

◆ 東京方面から新幹線に乗り、京都が近づいて、「まもなく京都」という車内放送が流れるころに、トンネルに入る。トンネルから出て、ここが京都かと思っていると、またトンネルに入ってしまう。そのトンネルを出ると、ようやく京都駅に着く。そのトンネルとトンネルのあいだにワタシの故郷の山科がある。もし、ひとつめのトンネルを出たときに、ここが京都だと思って(山科も京都なのだが)、東寺の五重塔なんかをきょろきょろ探してみた方がおられたら、ちょっとだけ申し訳なく思う。

◆ 先に、鉄道の廃線跡でトンネルを見て、小学生のころに聴いた南こうせつとかぐや姫の「ひとりきり」を思い出した、と書いたが、これは正確ではない。そのとき思い出した(というより、脳内で自動再生された)のは、「ひとりきり」であることには変わりはないが、その歌声は南こうせつではなくて、本田路津子だった。どうやら、この歌は、ワタシのなかで、彼女の声とともに定着してしまったらしい。第一印象というのはとても大切なものだ。その後、南こうせつの「ひとりきり」を聴いても、癖のある歌い方が耳について、どうも落ち着かない。

〔goo 音楽〕 70年のデビュー時には、その透明感あるヴォーカルから"第二の森山良子"と絶賛を受けた本田路津子。「風がはこぶもの」「ひとりの手」などのヒットを放ち、NHK朝の連続テレビ小説『藍より青く』の主題歌「耳をすましてごらん」(72年)の大ヒットで広く知られるようになった。結婚後に渡米するが、現在は全国の教会を中心に賛美歌シンガーとして活躍。賛美歌のアルバムも発表している。ちなみに「耳をすましてごらん」は、90年に南野陽子によってカヴァーされ大ヒットした。
music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD1150726/index.html

◆ 本田路津子は父親が好きでよく聴いていた。「ひとりきり」は『本田路津子 ニューミュージックを歌う』というアルバムに収録されていたようだ。実家にはまだあるだろうか。

◇ 【SIDE A】 01. 雨が空から降れば(小室等) 02. 結婚しようよ(吉田拓郎) 03. もみの木(麻田浩) 04. インドの街を象にのって(六文銭) 05. 赤色エレジー(あがた森魚) 06. 私の家(六文銭) 【SIDE B】 07. 春夏秋冬(泉谷しげる) 08. 私の小さな人生(チューリップ) 09. マリエ(ブレッド&バター) 10. ひとりきり(南こうせつ) 11. タンポポ(GARO) 12. どうしてこんなに悲しいんだろう(吉田拓郎)
69491180.at.webry.info/200906/article_18.html

◆ そういえば、「春夏秋冬」も、先に彼女の声で知ったので、泉谷しげるヴァージョンを聴いたときには、かなり面食らった。

◆ 《いのちのことば社》(プロテスタント系の出版社)のサイトで、「本田路津子・特別インタビュー」を発見。聞き手は松田一広(朝日新聞社勤務)。

松田 〔……〕 「本田路津子」というお名前は本名(旧姓)ですよね。ある人が「本田さんが信仰をお持ちか、ご両親が信仰をお持ちでは」と言うんですよ。「ルツ」という名前が聖書に出てくるって…。
本田 旧約聖書の「ルツ記」から取って両親が名前を付けてくれました。昔の文語体の聖書は「路津」ではなくて、「路得」と表記されているので、「路得子」という名前の人が結構いるんですよ。牧師さんのお嬢さんとか…。今は片仮名やほかの漢字を充てる人が多くなってきましたが、クリスチャンホームで育った人が多いですね。「ルツ」という女性は、姑にずっと仕えた人ですが、私自身は姑と同居する機会はありませんでした。
松田 姑の主人が亡くなり、ルツさんのだんなさんも早く亡くなったとか。
本田 そうです。結構、面白いストーリーなんですよ。親は適当に名付けたんだと思いますけどね(笑い)。3人の子どものうち、聖書から名前をいただいたのは私だけですから(笑い)。
松田 読みにくい名前ですから、子どもの時に「いじめ」にあったことは?
本田 それは特になかったけど、学校の先生は読めなくて困っていたようです。「本田」の後がつかえて、「どのように読むのですか」と聞かれることが多くて。子どもの頃の私は極端な「恥ずかしがり屋」だったので、先生に「るつこ」と答えるのが嫌で嫌で仕方がありませんでした。学期始めが特に嫌でしたが、大人になるにつれて、「素敵な名前ね」と言われることが多く(笑い)、わりと好きな名前です。親は「旧約聖書にある名前だよ」と言うぐらいで、由来について特に話してもらったことはありません。でも、子ども時代の私は信仰を持っていた訳でないのに、「神様にいつも見守られている」という意識がありました。

www.wlpm.or.jp/life_st/concert/index.htm

◆ こども心に「変った名前だな」と思っていたので、ちょっとすっきり。ついでに、《Wikisource》で、「ルツ記」まで読んでしまった。ナオミ・キャンベルの「ナオミ」も登場する。

◇ どうしてもペンなどが手もとにないときは、本の端を少し折り曲げておくだけでもずいぶんと違う。これは、英語では、ちょうど犬の耳が垂れているように見えることから、dog ear と言われている。表のページと裏のページとの双方が重要だというときは、ページの上の端と下の端とを折っておくとよいだろう。
平野啓一郎著 『本の読み方 スロー・リーディングの実践』(PHP新書,p.95)

◆ なるほど、と思ってページの上の端に「犬の耳」を作る、というようなことはしない。図書館で借りた本にそんなことをしてはいけない。《Wikipedia》(フランス語)にも、そう書いてある(ので笑ってしまった)。

◇ Cependant, même enlevée, la corne laisse une trace : elle ne doit pas être utilisée pour les livres des bibliothèques ou les livres précieux.
〔しかし、「犬の耳」は、もとに戻しても、跡が残るので、図書館の本や貴重な本にしてはいけない。〕

fr.wikipedia.org/wiki/Corne_(marquage)

◆ この「しかし」の前には、「犬の耳」の効用として、栞を買わなくてすむ、などと書かれており、これにも笑ってしまったが、考えてみればその通りで、なにも笑うことはない。《Wikipedia》(フランス語)から、ついでにもうひとつ。「犬の耳」といえば、ページの端を少し三角に折り曲げるのがふつうだろうが、

◇ Il existe une variante moins fréquente, selon laquelle la page entière est pliée en deux, parallèlement à la reliure. Selon ses partisans, cette variante permet de moins abîmer le papier.
〔やる人は少ないが、別なやり方もある。ページ全体を縦に半分に折り曲げるのである。その方が紙を傷めないと、ということらしい。〕

◆ いたいた、そういう折り方をしているひともたしかにいた。てっきり大ざっぱなひとかと思っていたら、逆だったのか。こりゃ失礼。反省、反省。もはや、なんのハナシを書こうとしているのかわからなくなっているが、別な本から、

◇ なぜこの事件〔東電OL殺人事件〕に関心をもったかとのお尋ねですが、少し難しくいえば、ありとあらゆる出来事が瞬時のうちに忘れ去られ、過去にとりこまれてしまういまという時代の異常な風潮に、私なりに抵抗したかったからです。すべてがあわただしく過ぎ去るという意味のドッグイヤーという言葉がありますが、この事件の発端から現在までを考えると、その意味がよくわかります。
佐野眞一 『東電OL症候群(シンドローム)』(新潮文庫,p.413-414)

◆ 「ドッグイヤー」とカタカナで書けば、「犬の耳(dog ear)」か 「犬の年(dog year)」かの区別がつかないが、

〔IT用語辞典バイナリ〕  ドッグイヤー〔dog year〕とは、俗に、IT業界の技術進化の早さを、犬の成長が人と比べて速いことに例えた俗語である。1990代後半頃から用いられていた。
 犬の1年は、人間の7年に相当すると言われている。例えば、今までなら1年かかった技術の進歩が2ヶ月もあれば可能になっているようなことがIT業界では珍しくなく、犬の成長が速いことになぞらえられている。あるいは単に時間の流れが速いことを意味する場合もある。
 後に、ドッグイヤーより輪を掛けて速い、人間の18倍で成長するネズミになぞらえた「マウスイヤー」という表現も登場した。

www.sophia-it.com/content/dog+year

◆ そういえば、ワタシのパソコンも「犬の年」ではもう老いぼれだ。そろそろ寿命かもしれない。壊れるまえに買いかえておかなくては、と思う。でも、天寿を全うさせ、その最期を看取ってやるのが飼い主の務めかとも思ってみたり。たんに資金が足りないだけだったり。

  

◆ 最近、ある本で「赫」という漢字を知った。新しい漢字を覚えたきっかけなど、すぐに忘れてしまうだろうから、メモしておく。

◇  「赤」より「赫(あか)」という字に惹かれてならない。
 「赤」だと、何か、絵具のチューブから出したままの色彩に思えるが、「赫」はもっと火のように鮮やかで、ぱちぱち音たてて眼底に焼き付いているような、滲みの余韻をもってくるから妙である。それは赤を二つ横に並べただけで、色が増幅し深い広がりをこの文字から感じさせてくれるからであろう。

斎藤真一 『風雨雪』(朱雀院,p.164)

◆ 「ぱちぱち音たてて眼底に焼き付いているような」鮮やかなアカ。いまのところ、ほかに情報がないから、これがワタシの「赫」と表記されたアカの定義である。今後、どこかでまた「赫」に出会うことがあれば変更されるかもしれないが、そうそう目にするとも思えないので、しばらくはそのままだろう。

◆ 写真に文字が写っていると、それがなんであれ、つい読みたくなる。2007年1月3日、長岡天神の奉納書初。下敷き用(あるいは練習用)の古新聞(京都新聞)の見出しは、

◇ 新憲法5年内に制定 総裁選討論会で安倍氏

◆ と読める。いつの新聞だろう。字が細かくて、記事の本文までは読めないから、ネット検索で調べると、京都新聞ではないが、

〔産経新聞〕 自民党総裁選に立候補している安倍晋三官房長官、谷垣禎一財務相、麻生太郎外相は11日、日本記者クラブ主催の公開討論会で、憲法改正や日中関係の改善などを議論した。安倍氏は5年を目安に憲法改正を実現する考えを表明、
www.sankei.co.jp/news/060911/sei007.htm

◆ という記事があって、「総裁選討論会」が行われたのが、2006年9月11日。いまから3年半ほどまえ。7年が「犬の1年(ドッグイヤー)」だとすれば、3年半は「犬の半年」か。ああ、せわしない。安倍、谷垣、麻生、これに福田康夫を加えて、このうち一番の「犬顔」は誰だろうか? などと、つまらないことを考えているうちに、すぐさまさらに3年半がたって、どの顔もはっきりと思い出せなくなってしまう。

◆ 2月7日。奥多摩駅周辺をぶらぶら歩いていると、「奥多摩むかしみち」と書かれた大きな案内図があるのが目にはいり、それによると、この道は奥多摩湖まで続いているそうだが、奥多摩湖までは10キロもあって、そこまで歩くと日が暮れてしまい、途方に暮れてしまうことになるだろうから、というか、そのときは、もう帰ろうと思っていたのだったから、もとより歩いてみようという気もなかったが、その案内図に「ダム建設に使用したトロッコの線路跡」と書かれている場所があって、すぐ近そうだったので、途方に暮れる心配もないかと思い、ふらふらとその古道に迷い込んだ。5分も歩くと、線路跡が見え、橋梁があり、トンネルがあった。そこからさらにサイカチギというところまで行って引き返し、帰りは線路跡を歩いて帰った。

◆ 家に帰って、撮った写真の整理をして「PhotoDiary」にアップし、「Memorandum」になんとなく関連した記事を書いて、そのときに、とりあえず「トロッコの線路跡」と書いてみたが、ちょっと気になっていた。というのも、線路はまだそこにあったのだから、それを「線路跡」と書いていいものかどうか、よくわからなかったのだ。「廃線跡」というコトバも浮かんだが、「廃線+跡」というのは、なんだか冗長な表現なような気もし、「鉄道跡」のほうがいいのだろうか、とか。しかし、それよりもなによりも、トロッコとはなんなのか?

◇ 小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事を――といったところが、唯トロッコで土を運搬する――それが面白さに見に行ったのである。
芥川龍之介 『トロッコ』(青空文庫

◆ トロッコといえば、この短編を思い出すひとも多いだろう。このトロッコは手押しの車両だったが、奥多摩のトロッコとはどんなものだったのだろう。気になって、調べてみると、この線路跡は、東京都水道局の専用線で小河内線と呼ばれていたもののようで、

◇ 小河内ダム建設の際に氷川駅(現・奥多摩駅)からダムサイト近くの水根まで、東京都水道局による専用鉄道が敷設された。観光開発のために旅客線化も一部で構想されたが、工事終了以来休止のまま(事実上廃止状態)となっている。
ja.wikipedia.org/wiki/奥多摩湖

◆ 小河内線は、1952(昭和27)年に開通。路線距離、6.7km。軌間は国鉄と同じ1067mm。ダムが完成する1957(昭和32)年にその役目を終え、運休(実質上、廃線)。

◇ この小河内線は建設当初より、将来を見越して高規格で設計されたのが特徴だ。工事用軌道にありがちな簡素な鉄道ではなく、ダム完成後には旅客線として転用できるように、電化可能な仕様としたもので、トンネル断面も大きく勾配も曲線もなるべく緩やかなものになっている。
宮脇俊三編 『鉄道廃線跡を歩く 3』(JTB,p.64)

◇ 非電化の小河内線は、国鉄五日市機関支区所属のタンク蒸気機関車C10やC11を乗務員も含めて東京都が借受けて運行していたもので、
Ibid.

◆ というようなことらしい。つまりダム建設のための東京都水道局小河内線は、ダムの完成後には、国鉄小河内線になってもおかしくはなかったくらい、「ちゃんとした」鉄道路線だったのだ。ちなみに、C11とはこんな機関車で、

◆ こんなのが走っていた鉄道路線を「トロッコの線路」と呼ぶのはちょっと気がひける。というわけで、「トロッコ」の文字をそっと削除した。

◇ 【トロッコ】 〔truck の転〕レールの上を走らせる土木工事用の手押し車。また、軽便鉄道の上を土砂などを載せて運搬する車。トロ。
三省堂 『大辞林 第二版』

◇ 【トロッコ】 ずりや土砂の運搬に用いられる建設工事用車両。 トロッコの語は trolley,truck のなまったものと思われる。
平凡社 『世界大百科事典 第2版』

◆ 「truck」(トラック)はいいとして、「trolley」(トロリー)をどう訛ればトロッコになるのかがわからない。ネットで「トロッコ」を調べていたら、「トロッコ問題」というものに出くわした。

◇ 【トロッコ問題】 trolley problem 少数を犠牲にして多数を助ける行為の是非を問う思考実験。暴走トロッコの前方線路上に動けない5名がおり,待避可能な支線にも動けない1名がいる。この時トロッコをどう誘導するのかを倫理的に問う。哲学者フィリッパ=フット(Philippa Foot)が提起。
三省堂 『大辞林 第二版』

◇ A trolley is running out of control down a track. In its path are 5 people who have been tied to the track by the mad philosopher. Fortunately, you can flip a switch, which will lead the trolley down a different track to safety. Unfortunately, there is a single person tied to that track. Should you flip the switch?
Philippa Foot, The Problem of Abortion and the Doctrine of the Double Effect in Virtues and Vices (Oxford: Basil Blackwell, 1978)

◆ どうして、「trolley problem」(トロリー問題)が「トロッコ問題」と訳されるのか。「trolley」というのは、路面電車のことではないのか。「trolley problem」で画像検索をすると、こんな画像が出てきて、これはまさしく路面電車で、トロッコではない。

◆ しかし、こんな画像もあって、これは路面電車ではなく、トロッコだ。

◆ どうも、「trolley」という語は、アメリカ英語とイギリス英語で、意味が異なっているだようだ。「trolley problem」を提起したフィリッパ・フット(女性)はイギリスの哲学者ということだから、やはり「トロッコ問題」と訳すのが正解になるのだろう。

◆ この「トロッコ問題」、「たけしの日本教育白書」というテレビ番組でも取り上げられたそうで、ネット上には、これにかんする《緊急アンケート》がいまも残っている。

◇ こんな問題を子どもに尋ねられたらあなたはどう教えますか?
wwws.fujitv.co.jp/safe/kyoiku2008/form4.html

◆ 「赫」という漢字のことを書いたら、ともだちがメールで、『赫い髪の女』という映画があるよ、と教えてくれた。

◇ 中上健次原作の官能小説「赫髪」を、宮下順子主演で見事に映像化したポルノ映画。
「Oricon」データベース

◆ また、おともだちの rororo さんが、「赫々たる大戦果」という表現を教えてくれた。字のヘタなひとが「々」を使わずに書いたら、「赤赤赤赤」になるだろうな。真っ赤っ赤だな。

〔自衛隊イラク派兵違憲訴訟の会・熊本〕 1945年4月末に生まれた私に付けられた名前は「赫子(かくこ)」でした。男の子の誕生が期待されていたのに、そうではなかったので、急遽、当時の新聞やラジオの報道で使われていた「赫々たる戦果」にちなんで名付けられたということを物心ついた頃から幾度となく聞かされました。
www.sensohoki.jp/haheiiken-k/ikentinzyutu-matushima.htm

◆ そういえば、ワタシの母は「節子」で、これは「紀元節」にちなんで付けられたのだった。誕生日はもちろん2月11日。

◆ 画家・斎藤真一の「赫」が気になるので、先に引用した文章をもう一度引く。

◇  「赤」より「赫(あか)」という字に惹かれてならない。
 「赤」だと、何か、絵具のチューブから出したままの色彩に思えるが、「赫」はもっと火のように鮮やかで、ぱちぱち音たてて眼底に焼き付いているような、滲みの余韻をもってくるから妙である。それは赤を二つ横に並べただけで、色が増幅し深い広がりをこの文字から感じさせてくれるからであろう。

斎藤真一 「赫の幻想」(『風雨雪』所収,朱雀院,p.164)

◆ この「眼底に焼き付いているような」赫は、画家が知り合った瞽女(ごぜ)の記憶の色と重なりあっている。

◇  かつて私が、赤に取り付かれ、あらゆる色彩の中で何故か赤が根源の色のように思えたのは、ふとしたことで瞽女さんという盲目の女旅芸人を知ってからである。
 ある時、彼女達に遠い想い出話を訊ねた時、次のようなことを語ってくれた。それは、六歳の時、はしかで失明した瞽女さんの色に対する記憶であった。
 「目の見えていた幼い頃の一番はっきりした記憶は、越後の平野に沈んでゆく真っ赤な太陽でした。大きなお日さまが、とてもきれいで、まぶたの中に今でも焼きついています」

Ibid.,p.164-165

◆ 「眼底に焼き付く」というのは、なんともインパクトのある表現であると思ったが、より「ふつうの」言い方であるだろう「まぶたの中に焼き付く」も、考えてみれば、身体的な感覚を伴った強烈な表現であることには変わりがない。陽の光を直視すれば、どのような機構によるのかは知らないが、だれだって、その残像がしばらくは眼に「焼き付く」。ただ、それが「しばらく」ではない場合があって、どうしたわけだか、越後平野に沈みゆく「真っ赤な太陽」は、六歳の少女のまぶたの中に(あるいは眼底に)、永遠に「焼き付」いてしまった。

◆ このコトバを聞いて、赤は画家にとって特別な色「赫」になったらしい。瞽女を描いた絵のタイトルにも「赫」の字が多い。画像は「赫い雪」。

◇ 同じ赤にしても目で見える外観上の行き詰まった色ではけっしてなく、実に鮮やかで、純度の高い、むしろこの世ではもう見ることの出来ない、透明度のある「赫」のようにも思えたからである。そしてその赫は得体の知れない生きもののような、ねっとりとした魂の色の塊りにも思えた。
Ibid.,p.165

◆ 時機を逃すのが得意なワタシにしては珍しく、武蔵野市立吉祥寺美術館で《斎藤真一展:瞽女と哀愁の旅路》が開催中であるのを、タイミングよく、いま知った。2月21日まで。ネットもたまには役に立つ。

◆ 「そうそう目にするとも思えない」と書いたばかりの「赫」という漢字を、はや、また目にしてしまった。いや、目にしたのは、正確には、「火」+「赫」の「爀」という漢字で、バンクーバー五輪で日本が銀銅の2つのメダルを獲得したスピードスケート男子500メートルに、李奎爀(イ・ギュヒョク)という韓国の選手が出場していた。世界ランキング2位の実力者だそうだが、本番では15位。「爀」、火が赤赤と燃える。よくは知らないが、そのような意味なのだろう。日本語の音読みでは「カク」。「火」のない「赫」も「カク」と読む。

◆ 「赫赫」(かくかく、かっかく)を辞書でひくと、

  赤赤と照り輝くさま。「―たる日輪」
  功名・声望などがりっぱで目立つさま。「―たる武勲」

  小学館『大辞泉』

◆ とある。「赫赫たる日輪」。赤赤赤赤と照り輝いた太陽。「赫く」で「かがやく」とも読むらしい。この「赫赫たる日輪」を、もっと日常的なコトバに訳せば、「真っ赤に燃えた太陽」になるだろう。ところで、これは真昼の太陽だろうか? それとも、朝日だろうか? 夕日だろうか?

♪ まっかに燃えた太陽だから
  真夏の海は恋の季節なの

  美空ひばり 「真赤な太陽」(作詞:吉岡治,1967)

◆ 真っ赤なんだから、夕日(あるいは朝日?)だろう、という連想が当たり前のことなのかどうか、そんなことを考えてしまったのは、

◇ 『万葉集』によく出て来る有名な枕詞に「あかねさす」があります。「茜さす」なんだから「赤くなる」のはずなんですが、この枕詞は、「日」「昼」「照る」にかかる枕詞です。「紫」にもかかりますし、「光って美しい」という意味で「君」にもかかります。なににかけてもいいようなもんですが、「茜さす」が光に関係あるんだったら、まず「夕焼け」じゃないでしょうか? 子供が太陽の絵を描くと、「真っ赤」にしますが、太陽が真っ赤になるシチュエイションは、やっぱり夕方でしょう。太陽=赤が夕方にあって、でも「あかねさす」はいつの間にか「昼の光に輝く」になってしまう。「あかねさす」という表現を作り出した人は当然夕焼けを見ていたと思われるのに、いつの間にか「夕焼け」がない。
橋本治 『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(ちくま新書,p.182)

◆ という文章を読んでしまったからで、橋本治によれば、日本には古来、王朝文学にも北斎や広重の浮世絵にも、夕焼けを愛でる文化はほとんど存在せず、「夕焼けの美」といったものが認識されるようになったのは近代以降のことだそうだ。

◆ 美空ひばりの「真赤な太陽」は、個人的には真夏の真昼の太陽のような気がしているのだが、これは夕陽をイメージしているひとのほうが多いかもしれない。

◆ 「赫赫たる日輪」はどうかというと、「赫赫たる」は「あかねさす」と同じく枕詞のようなもので、日の光であれば、朝日から夕日まで、幅広く使われるようだが、真昼の太陽の場合が多いようにも思う。以下、《青空文庫》から、「赫々」の使用例を、(分かる範囲で)時間順に列挙してみると、

◇ 朝のうちに富之助は客を送つて海岸傳ひに半里ほどの小村落へ行つた。〔中略〕 昨日と違つて日は赫々(かくかく)と海、波、岸の草原を照射した。
木下杢太郎 『少年の死』(青空文庫

◇ 翌朝、眼の覚めたときは、もう十時過ぎでしたろう。枕もとの障子一面に、赫々(あかあか)と陽がさしています。
田中英光 『オリンポスの果実』(青空文庫

◇ 今朝山を下りて來る時分には、どうかと氣遣つた天氣は次第に晴れて大空の大半を掩(おほ)つてゐた雲は追々に散らけ、梅雨上りの夏の來たことを思はせる暑い日が赫々と前甲板の上を蔽ふたテントの上に照りつけた。
近松秋江 『湖光島影 琵琶湖めぐり』(青空文庫

◇ しかも盛夏の赫々(かっかく)たる烈日のもとに、他の草花の凋(しお)れ返っているのをよそに見て、悠然とその大きい花輪をひろげているのを眺めると、暑い暑いなどと弱ってはいられないような気がする。
岡本綺堂 『綺堂むかし語り』(青空文庫

◇ 強烈な日光の直射程痛快なものは無い。日蔭(ひかげ)(ゆう)に笑む白い花もあわれ、曇り日に見る花の和(やわら)かに落ちついた色も好いが、真夏の赫々(かくかく)たる烈日を存分受けて精一ぱい照りかえす花の色彩の美は何とも云えぬ。
徳冨健次郎 『みみずのたはこと』(青空文庫

◇ 時正に未後(びご)。西方の秩父山にはかに陰(くもり)て、暗雲蔽掩(へいえん)し疾電いるがごとし。しかれども北方日光の山辺は炎日赫々なり。
森鴎外 『伊沢蘭軒』(青空文庫

◇ 空はもうからりと晴れ上ってすばらしいお天気になり、暖かい太陽が斜め上に赫々と輝いていた。
加藤文太郎 『単独行』(青空文庫

◇ それから夕陽が赫々(かくかく)と赤耀館の西側の壁体に照り映えるころを迎えましたが、
海野十三 『赤耀館事件の真相』(青空文庫

◇ おもひ出せば、或時は夕暮の夏の、赫々たる入日に、鋼線(はりがね)が焼き切れるやうな、輝やきと光沢を帯びて、燃え栄つてゐたのも、是等の山々であつた、
小島烏水 『天竜川』(青空文庫

◇ 夕日はまだ消えやらず芝生を赫々(あかあか)とはでに染めていた。そしてごい鷺もまたしきりにボコポンボコポンと啼いていた。
チェスタートン(直木三十五訳)『サレーダイン公爵の罪業』(青空文庫

◆ 橋本治の夕焼けの思い出。小学校4年ぐらいまで、友達があまりいなかった彼は、母親に「外へ行って遊べ」と言われても、特にすることがない。仕方がないので、ひとりで近所の庭の花を見たりして、ぼんやりと時間をつぶして家に帰ってくる。

◇ 家に帰ってもまだまだ日は高く、そして辺りが生活の慌しさを宿し始めた頃、夕焼けが現れます。夕焼けの美しさはわかっています。でもそれは、「一日を充実して終えることが出来た者を祝福するための美しさ」のような気がします。だとすると、自分にはその祝福を受ける資格がないのです。「また一日、なんとなくごまかして昼間を終わらせてしまった」と思う私は、夕焼けを「美しい」と思って、でもその美しさとは一つになれません。夕焼けは、まだなんとなく遠かったのです。
橋本治 『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(ちくま新書,p.114-115)

◆ そんな彼にも、いつしか友達ができ、

◇  その内に友達と外で遊ぶことが多くなって、早く訪れた冬の夕方、友達と一緒に「空一面の夕焼け」の下にいました。
 「幸福」というのは、体の中から湧き起こって、外へ向かって放射されて行くものかもしれません。その放射される幸福の先に「美しいもの」があると、幸福は、「美しい」という実感を体の中に引き入れてくれるのかもしれません。「寂しい」はずの冬の夕陽の下で、私はようやく、「夕焼けを美しいと思う資格」を手に入れたように思いました。

Ibid.,p.114-115

◆ ワタシは外で仕事をしているので、いまでも夕焼けの下にいることができて、とびきりキレイな夕焼けの日には、それだけで「今日もいい一日だった」と単純に思ってしまい、ときには、ひとにそのことを伝えたくもなるのだけれど、そんなことを聞いてくれそうなヒマなひとはあまりいそうにないので、あきらめる。

◇  子供が夕焼けの中で喚声を上げていられる時代が終わって、人間の暮らしから夕焼けが遠くなりました。日本中のあちこちに高いビルが建てられ、町というところは、密集した建物で埋め尽くされるようになりました。犇(ひし)めくビルを繁栄の指標とするような「経済」の自己顕示欲が、人の暮らしから夕焼けを遠ざけました。それは、以前と同じように人の上に現れ、でも、ビルを仰ぐことを日常としてしまった人間達は、もう夕焼けを目で追わなくなりました。夕焼けは、もう人の上に現れなくなったのです。
 夕焼けの下で、人間が自分達の黒い影を目撃しなくなってから、夕焼けは、「一日を終わらせるための感動」という役割りを捨てました。夕焼けは、それを「美しい」と実感した人達の胸の中に残る「過去の映像」となってしまったのです。

Ibid.,p.117

◆ 橋本治のドクダミ。

◇  庭とは反対側の、私の家の裏側には「見捨てられた空間」がありました。建物と垣根にはさまれた日の当たらないところで、水洗式に至る前の「便所の汲み取り口」があるようなところでした。そんなところへは誰も行きません。放置された廃材の他には、苔とシダとドクダミしか生えていません。つまりは、「美しくないところ」なのです。梅雨の少し前の頃、私は探検気分でそこへ行って、びっくりしました。そこには一面に白い花が咲いているのです。ドクダミの花でした。
 ドクダミの葉はいい匂いがしません。日の当たらないところに生えます。名前だって「ドクダミ」です。誰も「美しいもの」とは思いません。「美しくないもの」の代表で、ドクダミの葉っぱにさわったら、「エンガチョ切った」を宣言しなければいけません。そんなものなのに、誰も足を踏み入れないところで黙って咲いている白いドクダミの花は、とてもきれいなのです。静けさは緑で、花は清楚でした。私は感動して、「申し訳ない」と思いました。なんにも知らずにドクダミを差別していたことを恥じたからです。
 だからと言って、「ドクダミの花ってきれいだよ」と、人に吹聴して回る気もありませんでした。そんなことを言って、人にへんな顔をされたくはなかったのです。それで私は、ドクダミと「秘密の友達」になりました。

橋本治 『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(ちくま新書,p.225-226)

◆ ワタシはドクダミの花がきれいでないとは思わないが、あの白はなにか漂白された白さであるように思われて、あまり好きではない。白すぎるのだ。

◆ 《教えて!goo》に、こんな質問。

◇ 観光地などにある、等身大の人の絵看板で、顔の部分が抜けていて、そこから顔を出して写真を撮るための物・・・の名前を教えてください。うまく説明できません。写真があればいいのですが・・・
oshiete1.goo.ne.jp/qa4993053.html

◆ これで、じゅうぶん「うまく説明」できている。ああ、あれか。この質問にたいする回答は、「顔出し看板」「顔ハメ看板」など。さらに短くして、

◇ 「顔ハメ」、「顔出し」、「顔抜き」、「顔パネ」と、いろいろな呼び方があるようですが、
taiyummy.gozaru.jp/

◆ まあ、どれでもいいのだろう。こんなことが気になったのは、さきほど写真の整理をしているときに、この「観光地などにある、等身大の人の絵看板で、顔の部分が抜けていて、そこから顔を出して写真を撮るための物」の写真があって、それにつける適当なタイトルが浮かばなかったから。以前の写真にも、この「記念写真用顔抜き人物パネル」が何枚もあったはずだけれど、どこにあるのかほとんど憶えていない。これからは、検索しやすいように、「顔出し看板」と書いておくことにしよう。

◆ 似たようなことで、以前、「しわくちゃの花」という記事も書いた。

〔追記:2010/03/06 02:04〕
◆ 「顔出し看板」の写真がさらに2枚見つかったので、追加。

〔神戸新聞:2010/02/20 16:23(宮本万里子)〕 元暴走族の加古川市の男性らが、防犯活動などに取り組むNPO法人を設立し、地域の安全確保に一役買っている。かつては暴走やけんかに明け暮れたが、結束の固さを武器に「地域のために」と奮起。ひったくりなどの犯罪を警戒したり、遅くまで遊ぶ若者に帰宅を促したりしながら、夜の町で目を光らせる。〔中略〕 昨年12月、兵庫県からNPO法人の認証を受けた「自警団昌道(しょうどう)会」。2007年9月にボランティア団体として発足、現在は加古川や高砂、姫路市などの10~40代の男性約120人が所属する。〔中略〕 代表の石井昌彦さん(35)は中学卒業後の15歳の時、仲間と暴走族「十夢走夜(トムソーヤ)」を結成。派手な刺しゅう入りの服を身にまとい、国道250号などを毎夜、改造した単車で暴走した。けんかも繰り返し、数え切れないほど警察に補導された。
www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0002727566.shtml

◆ このニュース記事で思わず反応してしまう箇所は、やはり「十夢走夜(トムソーヤ)」だろうか。

◇ 「なにこの、来夢来人みたいなセンス」
tsushima.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1266673985/

◆ と馬鹿にするひともいるが、

◇ 「なかなか趣のある当て字だな」「名前のセンスあるじゃねぇか」「やべえこのネーミングは嫌いじゃない」「地味に当て字のセンスもいいな」「当て字はなかなかだな」「暴走族にしてはネーミングのセンスいい方かと」「暴走族にしてはまれに見るネーミングセンスの良さだな」「ちょっと上手いと思ってしまった」「当て字が意味を成してるし、結構うまいのではないだろうか?」
Ibid.

◆ など、この「暴走族風当て字」(ここでは「風」は必要ないが)にセンスのよさを見るひとも多い。

《当て字変換 漢字上等!》という文字変換ツールがあって、入力したカナを「暴走族風・宝塚風・お子様風・難読文字」に変換してくれる。これに「トムソーヤ」と入力すると、暴走族風では「斗無走夜」、宝塚風では「都夢奏耶」と出た。ワタシなら、アイヌ語風に(ちょと強引だが)「斗満宗谷」とでもするか。

〔十勝支庁〕 トマム 道内にも各地に同じ地名があり、漢字は旧釧路国側は「苫務」、十勝国では「斗満」と当てたが、この地名は、関又一が漢字を当てたとの記録がある。水多く湧き出るところ・水の多く集まる所の意であり、土地改良以前は湿地帯であった。
www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/rikubetsu_gaiyou.html

〔宗谷支庁〕 宗谷岬の北にある弁天島はアイヌ語で「ソーヤシュマ」と呼ばれていた。また、「岸の海中に岩の多い所」をアイヌ語で「ソ(ショともいう)・ヤ」と呼んでおり、これらが「ソーヤ」の由来とされている。
www.souya.pref.hokkaido.lg.jp/NR/rdonlyres/F1D803C3-6AB3-4CFD-A168-4FF3A75D61F0/0/iti.pdf

◇ 「チンチン電車」という言葉は、クラスの女の子の前ではタブーだった。「チンチン」がよくないのだ。しかし、「都電」などと呼ぶものはだれひとりいなかった。「都電」という名前を知ったのは、小学校高学年になってからのことだった。
町田忍 『昭和なつかし図鑑 私が原っぱの少年だったころ』(講談社文庫,p.264)

◆ 都電のことはよく知らなくても、京都にもワタシが中学のころまでは市電が走っていたのだから、同じようなことを書けそうなものだが、そもそも「チンチン電車」と呼んでいた記憶がない。たんに「市電」と呼んでいたような気がする。だから、「チンチン電車」と女の子の前で発語することがタブーだったのかどうかもよくわからない。いま、何度も「チンチン」と書いているが、なんということもない。そもそも、「チンチン」というコトバを使っていたのかどうかも怪しい。これが「チンポ電車」だったら、ちょっと困っただろうけど。というわけで、「チンチン電車」については、とくに書くことがない。その代わりといってはなんだが、「ババ」というコトバを思い出した。

◇ ダウンタウン浜ちゃんは「ババして」とウンコする事を言っていた。つまり関西圏一部ではウンコの事をババと言うらしい・・・・
glassjaw.exblog.jp/11646180/

◆ その通り。京都でも、ババと言っていたので、以下のハナシの多くは共感して読める。

◆ 高田馬場、馬場下町、馬場下前。

◇ 「高田馬場」を「馬場」という人が居るが、関西人にとってはちょっと恥ずかしい。(ババ=ウンコ の意)
piza.2ch.net/train/kako/988/988419767.html

〔道浦俊彦/とっておきの話〕 早稲田大学の学生時代、大学の本部と文学部キャンパスの間の交差点の地名が、「馬場下町」で、関西出身の学生は入学後しばらく「クスクス・・・」と頭の中で思っていた(と思う)のですが、
www.ytv.co.jp/announce/kotoba/back/2601-2700/2631.html

◇ ウンコのことを関西では「ババ」という。余談ではあるが高田馬場にある『馬場下前』というバスの停留所は関西の人にとって「ウンコしなさい」といわれているようでおもわず便意をもよおしてしまう。
『ペット用語事典 犬・猫編』(改訂版,ワンダーブック,p.422)

◆ 馬場くん、馬場さん。ジャイアント馬場。

◇ ちなみに、関西では馬場という苗字の人は小学校を卒業するまではいぢめられます。理由:ババ=うんこ だから。その為、ジャイアント馬場は、「でかいうんこ」と呼ばれ、トランプのババ抜きは「糞抜き」と呼ばれます。
www.geocities.co.jp/Playtown-Bingo/2386/book_11.html

関西では「ウンコ」を「ババ」若しくは「ババタン」と呼称するが、故に「馬場文夫」やら「馬場文子」なんぞと云う名前は、既に最初から人間として認めてさえ貰えぬ世にも不幸な名前であり、転入生「馬場文夫」君に於いては、東京から引っ越してきたと云う更なる不幸をも背負っており、当然の如くすっかり大阪弁に染まる迄皆にどつかれていたが、しかし東京っぽさが抜けた後も、その名前の宿命として結局「ババ踏み(ウンコ踏み)」と虐められ続けた。
http://www.acidmothers.com/cgi-bin/magz/jt/jt049/

〔Wikipedia:アジアン〕 馬場園梓(ばばぞの あずさ、1981年3月1日 - )はボケ担当。立ち位置は向かって左。大阪府堺市南区原山台出身。B型。通称「馬場ちゃん」。小さい頃は、名字と太っている風貌から「うんこまんじゅう」と呼ばれていた(本人談)。「サモハンキンポー」、「ジャイアント馬場園」とも言われていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アジアン

◇ 私は、アントニオ猪木派なので、ジャイアント馬場は好きではなかった。関西の人ならご存じのように、馬場 = ババ = うんこ、となり、私もそうだが、一番なりたくない嫌な苗字NO.1が、馬場なのだ(全国の馬場さんスイマセン)。馬場くんや馬場さんで、いじめられなかった人は、関西にはいないはず!。特に大阪では、馬場くんと馬場さんに対するイジメは壮絶を極める。私も小中高の学生の間に出会った数名の馬場くんや馬場さんで、いじめられなかった人は、見た事が無い。だから、「うんこ」という意味を持つ、ジャイアント馬場は好きになれなかった。当然だと思いませんか?「大きなうんこ」ですよ! 「大きなうんこ」という名前の人を好きになれますか?。「大きなうんこ」を尊敬できますか??
narcis.blog108.fc2.com/blog-entry-32.html

〔ズバリ式!! プロレス用語大事林〕 【ババ】(方言名) 関西弁で言うところのウンコさん。「子供の頃、ジャイアント馬場って初めて聞いた時ビックリしたわぁ~。関西弁に訳すと巨大なウンコやで!」(明石家さんま・談)
www.geocities.co.jp/Athlete-Crete/6447/jitenn.htm

◆ ついでに、アントニオ猪木、またはジャンボ鶴田(この手の表現はワタシは知らなかった)。

◇ 例えば、ちょっと汚い言葉だが、ババと言えば、ウンチの事。従って、ジャイアント馬場は、子供の頃からすっごいインパクトある名前だったわけ。高校時代、まだ猪木と馬場がタッグを組んでプロレスをやっていたので、授業中にトイレに行きたい奴は、「先生、猪木危ない」と叫んで、トイレに走っていったものである。その心は、「馬場が出る」。猪木がピンチの時はタッグを組む馬場が出る。馬場=ババ=ウンチである。
bbridge.exblog.jp/2961745/

◇ そいつは、突然やってきた。そいつの名前は、便意。猪木ピンチ猪木ピンチ、猪木ピンチで、ババが出る。これで、世代がわかる。馬場・猪木がタッグを組んでたって、いつの時代や。
saiyoba.blog.drecom.jp/archive/1200

◇ そう言えば、小学生のときウンコがしたくなったらよく「猪木ピンチ!」と言ったものです。ご存じない方のために解説すると、昔アントニオ猪木とジャイアント馬場がタッグ・チームを組んでいて、猪木がピンチになると馬場が出ました。故に、猪木ピンチ!→馬場出る!→ババ出る! あ、でも、これでは関西の方以外には解りませんね。関西ではウンコのことをババと言います。ババは主にヒトのウンコであり、動物のウンコの場合はフンと言います。だから関西ではババフミコとかババフミオという名前は笑われるのです。
homepage2.nifty.com/yama-a/essay0301b.htm

◇ バイトしてたホテルの厨房では、「鶴田ピンチ!」というのが、「便所行ってくる!」という隠語だった。(全日の)鶴田がピンチに陥ると、「馬場(ババ)」が出てくる……
bakuretsu.way-nifty.com/karasubakuretsu/2009/04/post-0d70.html

◆ それで、競馬をするようになってから、ようやく「馬場」というコトバに慣れた。おまけに、馬糞にも慣れた。

◆ 正月休みに、なんとなくカバが見たくなったから、大阪の天王寺動物園に行った。カバがいるのかどうかを確かめもしなかったが、パンダじゃあるまいし、まあ、カバぐらいどこの動物園でもいるだろう。カバを見たくなった「なんとなく」な理由は、「象や河馬」という記事で引用した吉田健一の、

◇ 一体に旨い魚や鳥というのは飼って見たらさぞ可愛いだろうという気がして、これは例えば石川県金沢のごりがそうであり、獣の中では象や河馬が可愛いが、その両方とも非常に旨いそうである。
吉田健一 『私の食物誌』(中公文庫,p.26-27)

◆ という文章が相変わらずどこかで気になっていて、カバをこの目で見たら、食べたくなるかどうか、を確かめてみたいと思ったから、ということになるのだろうけど、まじめに考えているわけでもないので、「なんとなく」ということにした。その結果はというと、いままでカバをちゃんと見たことはなかったなあ、というのが第一の感想で、シッポがどうなっているのかとか、けっこうな時間水中に潜っているんだなあとか、見ていると楽しくて、とてもじゃないけど、食欲まではアタマが回らなかった。いや、食欲などというのは、アタマを経由しないのが本物なような気もするので、ハヤリのコトバで言うと、ワタシは「草食系」ということになるのだろう。

◆ 以上のような内容をうまくまとめて、また新しい記事を書こうと思っているうちに、だらだらと時間が過ぎて、待ちきれずに、くだんのカバがなんと往生を遂げてしまった。

〔スポニチ:2010年02月01日 16:25〕  大阪市天王寺区の天王寺動物園は1日、飼育していた37歳の雌のカバ「ナツコ」が死んだと発表した。人間なら80歳前後といい、同園で飼育されたカバの中で最も長寿だった。
 ナツコは1972年に同園で生まれ、4頭の子を出産した。体長は約3・3メートル、体重は推定約2トン。大きな口を開け、飼育員が放り投げる好物のリンゴやバナナを丸のみする姿が人気だった。

www.sponichi.co.jp/society/flash/KFullFlash20100201075.html

◆ 動物園のカバには名札がついていなかったし、またカバを区別できるほどカバになじみがあるわけでもないので、ワタシの見たカバが新聞記事のナツコだったのかどうか、はっきり言うことはできない。でも、カバ好きの京都の小学校の先生の《ぼちぼちいこか》というサイトの「天王寺動物園のカバ」というページに、

◇ カバは池の中にいます。池はつながっているのですが、大きな池と小さな池に分かれています。大きな池にテツオとティーナ夫婦。小さな池にテツオの母であるナツコがいます。名前は動物園の人に確かめました。
shigeru.kommy.com/kabatennouji.htm

◆ と書いてあって、あのカバは「小さな池」にいたのだから、その後入れ替えたりしてなければ、あれはやっぱりナツコだったんだろう。

◆ その「小さな池」の前で、ほとんどの時間を水の中にいて、たまにしか水面に顔を出さないカバの影を見ていたら、となりにいた中学生ぐらいの3人組の女の子のひとりが、たまたま顔を出したカバを見て、

◇ 「カバって、ブタみたいやなあ」

◆ と言った。それが聞こえて気分を害したのだろうか、カバはもう水中に潜ることはせずに、池から上って寝床のある方へ帰ろうとし始めた。それを見て、また別な女の子が、

◇ 「あんたが、ブタゆうたからやん。カバ怒ってるで。謝っとき」

◆ と言った。それを聞いて大人気ないと思ったのか、それとも寝床の扉が閉まっていただけなのか、カバはまたワタシ(たち)の見えるところに戻ってきて、そのおかげで、さらに数枚、写真を撮ることができた。それがナツコ、カバのナツコ。

◆ カバのナツコで、ゾウのウメ子を思い出した。

〔神奈川新聞:2009年9月17日〕 小田原城址(じょうし)公園(小田原市城内)にある小田原動物園で60年にわたって暮らしてきた雌のアジアゾウ「ウメ子」が17日、死んだ。推定62歳、人間なら約100歳。国内最高齢の一頭だった。ゾウ舎の前には早速、献花台と記帳簿が設けられ、ウメ子ファンの観光客らが足を止めていた。〔中略〕 ゾウ舎の回りに掘られた溝に落下してもけがひとつしなかったウメ子。大病知らず、歯も抜けず、不機嫌なときは長い鼻で来園者に水をかける癖も最近まで健在だった。〔中略〕 同動物園を含む小田原城跡は国指定史跡のため、市はゾウ舎を撤去する方針。小田原動物園の動物は14匹のニホンザルだけとなった。1950年にタイから同動物園に来園したウメ子の死で、井の頭自然文化園(東京都武蔵野市)で飼育されている同い年の雌のアジアゾウ「はな子」が単独で国内最高齢となる。
news.kanaloco.jp/localnews/article/0909270014/

◆ 小田原城址公園には(「PhotoDiary」を始めてから)2度行ったが、ウメ子を見たことはなかった。見に行ったのは、小田原城で動物園ではなかったし、そもそも動物園が小田原城の本丸にあるなんてことは知らなかった。とはいえ、天守閣のある本丸まで行けばいやでも動物園が目に入る。ゾウ舎があるのはわかったが、ゾウの姿は見えず、とっくのむかしに空き家になっているのかも、とも思ったり。でも、いたんだな、あそこに。死んでから、そのことを知った。

◆ ついでながら、上の記事で「小田原動物園の動物は14匹のニホンザルだけとなった」とあるので、このサルのことも気になった。サルはどうしているのか?

〔神奈川新聞:2009年12月31日〕 ゾウの「ウメ子」がこの9月、人間なら約100歳の大往生を遂げた小田原動物園(小田原市城内)。唯一の動物となったニホンザル14頭が、小田原城の天守閣を仰ぎながら寂しい年の瀬を迎えている。市は国指定史跡内にある動物園の撤去を計画しているため、サルの引き取り手を5年ほど前から探してきたが、まだ見つかっていない。「頭数制限のための去勢が裏目に出た」とする見方があるものの、市は「なんとか一群の安住の地を見つけたい」と話している。
 小田原動物園は1950年、市が催したこども文化博覧会に伴い、遊園地とともに開園した。まだ天守閣はなく、平地を利用した動物園にこのとき、ウメ子が上野動物園から来園した。
 市は当時の動物数を「38種93点」と記録。キツネやニホンアナグマ、カニクイザル、タイワンザル、ワニ、アヒル、インドクジャクなどが飼育されていた。
 市は59年に小田原城跡が国指定史跡となった後、国の指摘を契機に動物園を「撤去を図る施設」の一つに位置付ける。
 動物たちの“引っ越し”が本格化するのは、市が小田原城本丸広場環境整備事業に着手する2005年度から。動物たちは次々に県外の動物園などに移り、おりも一つ、また一つと消えていった。
 頭数を増やさないようにと、ニホンザル4頭が去勢されたのは翌年度。ウメ子は「繊細な上に高齢」として、ゾウ舎を「終(つい)の棲家(すみか)」にすることが決まっており、09年度の動物数はウメ子とニホンザルの2種15点となった。
 そのウメ子が9月17日に死ぬ。推定62歳だった。とうとうニホンザルだけが残された。市は5年ほど前から、日本動物園水族館協会を通して引き取り先を探してきたが、まだ挙手はない。

news.kanaloco.jp/localnews/article/0912310001/

◆ さらについでながら、城跡にある動物園ということで思い出したのが、懐古園(小諸城址)のなかの小諸市動物園。ずいぶん以前に「だれもいない動物園」という記事を書いた。

◆ 小田原動物園のウメ子は62歳で死んだが、同い年のはな子(井の頭自然文化園)はというと、まだまだ元気なようで、

〔吉祥寺経済新聞:2010年01月29日〕  井の頭自然文化園は2月6日、イベント「アジアゾウ はな子 63歳のお祝会」を開催する。
 アジアゾウの「はな子」は日本では最高齢となる。同園の人気者で今年の1月1日で63歳を迎えた。「お祝い会」では、「お祝いデザート」として誕生日ケーキのプレゼント、伊勢丹吉祥寺店からのチャリティー金贈呈「イセ・ジョージによるチャリティ金授与式」、吉祥寺&井の頭自然文化園クイズ大会を行う。

kichijoji.keizai.biz/headline/903/

◆ 昨年は、JR東日本八王子支社が作った「中央線が好きだ。」のポスターにも出演していて、

  好きな人が出来たら、必ずここへ連れてくる。
  それが幼い頃からの、ゾウのはな子との約束でした。

◆ というキャッチコピーが微笑ましい。

◆ こんな記事はどうだろう。《伊勢丹吉祥寺店で「象のはな子パン」販売-閉店の3月14日まで》

〔デパチカドットコム:2010年02月15日〕 伊勢丹吉祥寺店の本館地下1階にある「アンデルセン」は現在、井の頭自然文化園で飼育されている長寿日本一のアジアゾウ「はな子」にちなんだ特製「象のはな子パン」を販売している。〔中略〕 価格は1個210円。閉店の3月14日(日)までの毎日限定60点を販売する。
www.depachika.com/headline/1007/

◆ それにしても、ゾウのはな子より先に、デパートの伊勢丹吉祥寺店がなくなってしまうとは! 開店したのは1971年11月ということだから、まだ38歳か。人間の年齢に換算すると、いくつなんだろう? さすがに「デパートイヤー」の計算式はどこを探しても見つからないか。

◇ 「今日は赤テントウだ、きっといいことあるぞ、僕は黒テントウ、はずれ!」(赤テントウとはナナホシテントウムシのことで、赤地に七つの黒い斑点。黒テントウとは、ナミテントウムシで、黒地に赤い斑点がある)、バラの花の裏面にびっしりついたアブラムシを食べによく集まるのがテントウムシだった。
町田忍 『昭和なつかし図鑑 私が原っぱの少年だったころ』(講談社文庫,p.162)

◆ 都庁に巨大な2頭のテントウムシがいた。赤テントウと銀テントウ。これはアタリかハズレか? 調べると、宮本信夫の「TENTO MUSHI」という「芸術作品」、いや都庁の用語では「アートワーク」というものらしい。

〔都庁見学のご案内:アートワーク〕 都庁舎には彫刻やレリーフなど38点のアートワークが設置されています。日本の現代美術を代表する作家や代表的な外国の作家のほか市民や若手作家による公募作品(No.31~38)もあります。都庁を一周しながら、ぜひ見学してみてください。
www.yokoso.metro.tokyo.jp/p-art/artwork.htm

◆ せっかくだから、38点の「アートワーク」をネット上で「見学」してみたが、芸術的感性に欠けているせいか、ほとんどなにも感じるところがなかった。それでも、なにか感想を言おうとすれば、

◇  町の中に彫刻を並べれば並べるほど、文化が向上すると考える人たちがいるらしい。行政が音頭をとり、十メートルおきに彫刻が並んだ道さえある。
 しかし、いうまでもなく、並べればよいというものではない。と書けば、電信柱や広告看板が立っているよりはましではないかと反論されるだろうが、本当にそうだろうか。
 電信柱が醜いと誰かが言い出せば、たちまち毛嫌いされてしまうように、今は「美しい」屋外彫刻の多くが、そのままで、やがてガラクタと化す日がくるに違いない。
 現に、戦前の日本の街角に立っていた軍人の彫刻を、今ではもうほとんど見ることができない。代わって、匿名の裸婦像や抽象彫刻が幅をきかせているのだが、それだって、いつ市民からそっぽを向かれるかわかりゃしない。

木下直之 『ハリボテの町』(朝日新聞社,p.26)

◆ といったものになるような気がするので、書かない。

◆ 浅草寺の境内に「鳩ポッポの歌碑」というのがある。「鳩ポッポの歌」といっても、「ぽっぽっぽ、鳩ぽっぽ、豆がほしいか、そらやるぞ」で始まる歌とは別もので、歌詞は、

♪ はとポッポ はとポッポ
  ポッポポッポと とんでこい
  御寺の屋根から下りてこい
  豆をやるから皆たべよ

  「鳩ポッポ」(作詞:東くめ,作曲:滝廉太郎)

◆ お寺の屋根に鳩はいたが、じっとして下りてこない。なぜって、だれも豆をやらないから。

♪ いろんな国から来た人で 浅草寺は今日もにぎやか
  仲見世通り抜ければ 晴れ空と香炉の煙
  いつもの様に鳩豆を 買う僕の目に飛び込んできた
  鳩豆を自分で食べてる The tourist from somewhere

  The Students 「ハトマメ~Say Hello To The World.~」(作詞・作曲:槇原敬之)

◆ 外国からの観光客は大勢いたが、「鳩豆を自分で食べてる」マヌケはひとりもいない。見たくても見られない。なぜって、鳩豆はもう売ってないから。浅草寺の鳩豆売りはいつのまにかいなくなってしまった。

〔書を捨てて街へ出よう:浅草寺(2006年5月10日)〕 浅草寺にはこれまでにも何度か来ている。この場所はハトがいっぱいいた記憶があるのだが、どうも今日は少ない。寒いせいだろうか? そう言えば、以前あった「はとまめ」の売店も無い。よく見ると、あちらこちらにハトに餌をあげるのを禁止する張り紙が貼ってある。何と、いまやこの場所でハトに豆をあげることはできないのである。なんとびっくり。そうすると、この場にある「鳩ポッポの歌碑」も今や過去の想い出になってしまっているようだ。
www5f.biglobe.ne.jp/~st_octopus/POI/tokyo/sensouji.htm

〔360@旅行ナビ:浅草寺〕 昔、訪れたときは、ハト豆売り場があり、鳩がたくさんいたのに今回は見ることができませんでした。エサやり禁止となったようで、本堂近くに立っている「鳩ぽっぽの歌碑」が寂しく見えました。
www.360navi.com/photo/08tokyo/05asakusa/01sensoji/10index.htm

〔浅草たそがれ幻視行〕 「鳩ポッポ歌碑」のすぐそばには、つい最近まで鳩豆を売る小屋があった。それがいつのまにか撤去され、かわりに「鳩に餌を与えてはならない」と書いた真新しい看板が立つ。野鳥を介した健康障害を懸念してのことらしく、結果、境内の鳩は激減した。
www.ezoushi.com/genshikou/g-12/g.html

◆ 「いつのまにか」なくなってしまった鳩豆売りの小屋。その「いつのまにか」とは、いつだろう。

〔朝日新聞:2004/05/16 16:29〕  東京の下町名所、浅草寺からハトの豆売り小屋が消えた。ハトと遊ぶ光景は庶民の生活に溶け込んでいた。「愛鳥週間」のいま、境内にはエサやりを禁止する看板が立っている。
 「観音様とハトのかかわりは古いんです」と寺の関係者。大正時代からすでに露天商が豆を売っていたという。
 小屋は、雷門から仲見世を過ぎて左手の五重塔近くにあった。地元の人が敷地を借り、戦後間もないころに建てた。1袋100円。トウモロコシが混ざった配合粒餌だ。隣には「鳩ポッポの歌碑」も建てられた。
 エサをやるとハトが来る。かわいいのでまたエサを。こんな繰り返しでハトは増えていった。
 一方でハトの被害も広がった。屋根や門に糞(ふん)害防止の金網やネットが設けられたが、期待したほどの効果はなかった。
 「ベランダが汚れ、洗濯物が干せない」「飛んできたハトに頭をはたかれた」。地元台東区への苦情は絶えず、皮膚炎やアレルギーを心配する声も多かった。糞や羽毛を吸い込まないようマスクをするお坊さんもいた。
 「観音様の土地だけに殺生はできない。でも、数を減らす必要はある」と、区が広報誌などを通じてエサやり禁止を呼びかけたのは昨年夏だ。
 「寂しいが、仕方ない」と寺も大みそかに小屋を撤去した。4カ月余りが過ぎた今、浅草寺のハトの数は以前より少なくなっている。
 問題のハトは「ドバト(土鳩)」と呼ばれる。原種は、アフリカ北部から中国に分布するカワラバトだ。奈良時代に日本に持ち込まれた。通信用に改良された「伝書バト」の中から野良化したものもいる。1年に何度も卵を産む。
 「食べ物を人間に依存するようになってしまい、生態系が狂ってしまった」と環境省鳥獣保護業務室。雨のあたらない建築物内に巣を作る。浅草寺には約3000羽が生息していたとみられる。
 ハトの糞害は各地で問題になっている。広島の平和公園では、94年から売店でのエサの販売が中止された。同年から4年間で3分の1の約1800羽に減ったという。
 上野公園では、噴水広場付近でポップコーンが売られている。台東区によると、売り上げの一部は管轄する都の収入になっているといい、既得権益を理由に売店はエサ売りを中止しそうにない。川崎大師(神奈川県)でも、1袋100円で豆が売られている。
 靖国神社は昨年、豆の自販機を撤去した。代わりに神社が鳩舎(きゅうしゃ)で純白のハトを飼育している。音楽を流しながらエサを与え、管理する方法だ。「個体数を一定のレベルで維持できる」と野鳥の専門家も注目している。
 「ハトにエサをあげないで」というパンフレットを環境省が全国の自治体に約10万部配ったのは01年。「エサを与えないと、雑草や樹木の種子、芽などを自分の力で食べる。これがハトの本来の姿」と呼びかけた。
 都市に生息する鳥と人間の関係を調べている「都市鳥研究会」(埼玉県和光市)によると、ハトは都市の環境を最大限に利用して種の維持・繁栄を図っているという。
 (1)電線に針金を植え込む(2)窓辺を急角度にし、休息地として利用できないようにする(3)カラスの声で脅すなど色々な対策が考えられたが、いずれも対症療法でしかない。
 同研究会事務局長の川内博さんは「エサを与えればハトは増える。この相関関係ははっきりしている。エサやりを制限することは時代の流れだ。生命力が強いので絶滅の恐れはない」と話している。

www.asahi.com/national/update/0516/010.html

◆ この記事によれば、小屋が撤去されたのは、2003年12月31日のことらしい。それ以前から浅草寺には何度も足を運んでいたというのに、ワタシは鳩豆売りの小屋がなくなっていたことにまったく気がつかなかった。いや、そもそもそんな小屋があったことさえ気がついてはいなかったのだ。いったいなにを見ていたのだろう。そんな具合だから、残念ながら、鳩豆売りの小屋の写真を撮ってはいない。なにかが消え去るとあらかじめ知らされていれば、それを記録しておこうと多くのひとがそこを訪れるだろう。けれど、消え去るものは、たいていの場合、ひっそりとだれにも知られずに消え去ってしまい、消え去ったあとになって初めて、消え去ってしまったことに気がつくものだ。

◆ と、そんな言い訳を考えながら、念のため、2003年12月31日以前の浅草寺の写真を探してみたら、なんとまあ、あったのだ、「はと豆」と書かれた小屋の写真が。右隣には「鳩ポッポの歌碑」が写っている。日付けは、2003年10月21日。これには豆鉄砲をくらった鳩ぐらいに驚いた。いやはや、まったく記憶にない。そういうわけで、今度はまた別の言い訳を考えなければならなくなった。

◆ 善光寺にも鳩豆売りがいたらしい。

〔まちBBS:2007/11/23(金) 20:13:52〕 昔の善光寺は、それはすんごい暇な寺でした。朝、事務所の職員の仕事は、鳩のえさやりだ。だってえさやらないと、鳩飢え死にしちゃうんだよ。大豆をバケツ一杯か二杯ざーっとまく。これが冬。夏は観光客がくるから、鳩は生き延びるけど冬は人っ子ひとりいない。しかし今はご存知の通り鳩はじゃまもの。豆売りばーさんどこにいったのかなー。景色の一部だったのに。
www2.machi.to/bbs/read.cgi/kousinetu/1048693199/l50

〔2007年12月08日〕 善光寺には鳩がつき物です。いつも境内には豆を売っているおばあちゃんが居られたのですが、最近は見かけません。豆売りは禁止になったのでしょうか。
uonononagare.wablog.com/1417.html

〔2008年01月17日〕 山門の辺りに、昔は、煮た豆を鳩の餌に販売しているおばあさんがいましたが、もう販売していないのかなあ?小皿に盛って販売していて、よく鳩にあげたものです。懐かしい思い出です。
sakatsume.naganoblog.jp/e71181.html

〔2008年05月27日〕 私が幼い時には、山門の横で鳩に豆をあげるための、豆を売るおばちゃんがいたのに、今はいなくなったのが寂しい感じもある。
fastical.naganoblog.jp/e112561.html

〔2009-05-08〕 善光寺は20年程前、信州に嫁入りした友人を訪ねたときに来て以来、今回は2度目。〔中略〕 境内では鳩豆を売っていて、買ったとたんに鳩に襲われた記憶は鮮明。今は鳩豆売りのおばあさんもいないし、鳩も数えるほどしかいなかった。フン害がひどかったんだろうな。
yokoyamaaa.blog5.fc2.com/blog-entry-648.html

〔2009-11-15〕 豆を貰えなくなり、少し減った鳩。子供達が小さいとき、豆を鳩にあげるのが楽しみだったが、フン害や鳥インフルエンザの影響で豆売りがいなくなった。文化財を守るためにはしかたないのだろうが少し寂しい。そういえばメリーポピンズに豆売りのおばあさんがでていた。鳩の豆売りは世界共通なのかな。豆を貰えなくなった鳩。どこで餌を食べているのだろう。
marinezumi.blog102.fc2.com/blog-entry-884.html

◆ 善光寺の鳩豆売りの「おばあさん」は、「いつのまに」いなくなったのか。

〔信濃毎日新聞:2003年08月30日〕  長野市の善光寺境内で名物のハトの豆売りが、今月限りで姿を消す。軒下が売り場になっている三門(山門)が九月から解体修理工事に入り、善光寺が「これを機に営業を終わりにしてもらう」と決めたため。豆を売るおばあさんは「いい潮時」と話すが、明治から続くともいわれ、参拝客になじみの深い豆売りの終了を惜しむ声は多い。
 善光寺事務局は昨秋、傷みが激しい三門大修理に着手。工事は九月から本格化し、門全体を作業の足場で覆うのに伴って、軒下の売り場スペースがなくなることになった。一七五〇(寛延三)年の建立以来、初の大規模修理で、足場が撤去されるのは五年も先。事務局は「境内にほかに雨風を避けられる場所がない」として、豆売りをやめてもらうことを決めた。「集まってくるハトのふんも門を傷めてきた原因の一つ」(善光寺関係者)との指摘もあった。
 ハトの豆売りがいつから始まったかは定かでないが、善光寺大勧進敷地内にあった養育院が一九一二(明治四十五)年四月、三門下に亜鉛ぶきの売店を作った―との記録がある。「養育院のお年寄りが養育院の維持管理を賄うために始めたと類推される」と大勧進の柄沢滋執事。
 近年は三門軒下の四隅に売り場があり、辞める人が次に始めたい人に売り場を引き継ぐ形で続いてきた。ここ数年は店主の高齢化などで売り場は二カ所に減っていた。
 二十二年間売ってきた溝口キクさん(83)=同市往生地=は、常連客に「今月で終わりだよ」と声を掛けている。一九四五(昭和二十)年三月、東京にあった自宅が大空襲で焼かれ、夫の郷里の長野に疎開。行商などをした後、宿坊で働いていた縁で豆を売り始めた。
 毎日座る木製の台は、代々の店主から受け継いできた。バケツの水で軟らかくした大豆は一盛り百円。始めたころから変わらない。「不況のせいか、ハトへの関心が薄らいだのか、年々売れなくなっていた。でもいろんな人と知り合いになれた。いい潮時」
 ほぼ毎日、健康維持のため歩いて参拝に通う同市北石堂町の女性(66)も、境内で溝口さんと言葉を交わすのが日課。「善光寺にたどり着いて話す相手がいなくなるのは寂しい」。二十八日、神奈川県から子どもと参拝に訪れた男性(37)は「豆をまく子どもたちの楽しみが減りますね」と残念がっていた。

www.shinmai.co.jp/news/2003/08/30/016.htm

◆ 2003年08月31日か。浅草寺から鳩豆売りが消えたのが、やはり同じ年の12月31日。2003年は、鳩豆売りの歴史のなかで、どうやら重要な年だったようだ。

◆ ワタシが善光寺を訪れたのは、2005年2月2日。山門(三門)はまだ修理中だった。写真には鳩が写っているが、鳩豆売りのおばあさんはもういなかったので、写っていない。上に引用した新聞記事によると、かつては、この門の四隅に鳩豆売りがいたというから、まるで四天王のようだったろう。最後の「ここ数年」は、二カ所に減ったそうだから、まるで二天王のようだったろう。

〔気象予報士Kasayanのお天気放談:2009年11月25日〕 山門北側両脇には、内部を見学するための階段が設置されています。40年前・・・いや・・もっと最近まででしょうか・・・ この場所には、ハトにくれる(長野の方言ですね・・・「あげる」「やる」ことをこういうんですよね)豆を売っているオバさん・・・お婆さんだったかな?・・・がいました。小さなコタツにあたりながら、直径10センチほどの使いこんだ木製のお皿の上に、黄色い豆を十数粒並べていました。私の記憶の中では、この二人のお婆さんが山門の景色と一体化しています。
kasayan.naganoblog.jp/e355633.html

〔風待月の庵:2003年4月9日〕 私が子供の頃から山門前の左右に1対の鳩の豆売りのおばあさんがいた。〔中略〕 どういうものかいつもふたりとも「おばあさん」だった。子供の頃見たおばあさんが生きているとは思えないから、どこかで交代があるのだろうけれど、いつ見ても同じくらい年取ったふたり組。「70歳以上に限る」という就職条件があるんだろうか。〔中略〕 お二人を見ているとメアリー・ポピンズに出てくるウエストミンスター寺院の豆売りのおばあさんを思いだしてしまう。
www.geocities.co.jp/Bookend-Christie/5898/b/zen04.htm

◆ もしかすると、おばあさんは「ここ数年」以上も前からずっと「二人」だったのかもしれない。

◆ 善光寺の鳩豆売りのおばあさんを見て、メリー・ポピンズ(または、メアリー・ポピンズ)の鳩のエサ売りのおばあさんを思い出した、というひとがいる。

◇ そういえばメリーポピンズに豆売りのおばあさんがでていた。
marinezumi.blog102.fc2.com/blog-entry-884.html

◇ お二人を見ているとメアリー・ポピンズに出てくるウエストミンスター寺院の豆売りのおばあさんを思いだしてしまう。
www.geocities.co.jp/Bookend-Christie/5898/b/zen04.htm

Mary Poppins は、日本では、ジュリー・アンドリュース主演のミュージカル映画の場合は「メリー・ポピンズ」で、その原作であるパメラ・トラバースの小説の場合は、「メアリー・ポピンズ」と表記されるようで、その違いの理由は、

◇ 日本では、Maryの英国式発音と米国式発音を区別するために、英国式発音は「メアリー」、米国式発音は「メリー」と書くことが習慣になっています。
bbs3.sekkaku.net/bbs/?id=eikaiwa&mode=res&log=5352

◆ ということにあるのだろう。だから、

◇ 映画のタイトルは『メリー・ポピンズ』だが原作の翻訳本だと『メアリー・ポピンズ』となっている。これはやはりMARYの発音がイギリス式とアメリカ式で違ったりするのだろうか。わたしは子供の頃に本の『メアリー・ポピンズ』を読んでいたのでどうも『メリー・ポピンズ』という呼び方には違和感があってしょうがない。
www.jion-net.com/blog/archives/2004/12/post_322.html

◆ というひとが出てくるのはしょうがないし、映画を先に観たひとが本の「メアリー・ポピンズ」という表記に違和感を覚えるのはしょうがない。以下、面倒なので(ワタシは映画も観てないし、本も読んでないから、どちらにも思い入れがないので)、すべて Mary Poppins と書くことにする。で、この Mary Poppins に、「鳩おばあさん」が登場するらしい。

◇ セントポール大聖堂といえば、メリーポピンズ。1ペンスで、鳩のエサを売っているおばあさんのシーンが浮かびます。
blog.goo.ne.jp/elizabeth-hu/m/200903/1

◆ このひとは「メリーポピンズ」と書いているので、これは映画のハナシだろうか。ところで、セントポール大聖堂? その前には「ウエストミンスター寺院の豆売りのおばあさん」と書いているひとがいて、このひとは「メアリー・ポピンズ」と書いていたから、本では「ウエストミンスター寺院」で、映画では「セントポール大聖堂」ということになっているのだろうか。それとも、たんにどちらかが間違っているのか。ちょっと調べてみると、映画の「鳩あばあさん」は、ウエストミンスターではなくセントポールにいるらしい。それから、鳩のエサは1ペンスではなく、2ペンスらしい。

◇ ハトおばさんって言ったら『メリーポピンズ』にも出てましたねぇ・・・ あの部分は何回見ても涙が出るんです「2ペンスの歌」(涙)
gon-218.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-db0b.html

◇ 私が1番好きな場面、あのセント・ポール寺院の鳩の餌売りのおばあさんの歌が素晴らしい。トゥーペンス(2ペンス)をタペンスと発音する、いや殆どタプンと聞こえるあの歌・・・白いドームの上に鳩の群れが舞い上がる。石段に腰掛けて、鳩の餌を与えるおばあさん・・・彼女は鳥の言葉を話し、夜には大きく広がったスカートの中に鳩を入れて眠らせる・・・
www.bestlife.ne.jp/hobby/travel/england/02/15.html

◆ 「2ペンスを鳩に」(Feed the Birds)。

◆ 調べがつかなかったが、はたしてウエストミンスター寺院に鳩おばあさんはいるのだろうか。